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「危機の宰相」論

身も心も愛国心で満ち溢れ、胆識ある有徳の指導者

 わが国の総理大臣ポストの重みがいかに軽くなってきたことか。菅直人首相の退陣表明とその後の政権延命をめぐる茶番劇は、永田町に混乱を引き起こし、国民から嘲笑すら買っている。政治は「信なくば立たず」だ。政界の激震を復旧・復興するために、今、どういう指導者の登場が待望されるのか、理想的宰相像とは何かを考えたい。

 「北辰(ほくしん)其の所に居て、衆星(しゅうせい)之に共むかうが如し」。

 これは『論語』(為政篇)が為政者の在り方について述べた言葉だ。天空の中心に存在してひと際明るい光を発する北極星(北辰)である時の政治指導者が、不動の位置で国家の進むべき針路を示し続けることによって、国民はそのリーダーに従い国政が治まるという意味である。ところが、現在の日本の首相はどうか。

 菅政権に対する内閣不信任決議案が採決された6月2日。採択に先立ち開かれた民主党代議士会で首相は、「(東日本大震災の復旧・復興に)一定のめどが付き、役割を果たした段階で若い世代に責任を引き継いでほしい」と述べ、辞任する意向を表明した。その退陣表明が採決に影響し、不信任案に賛成する予定だった多数の民主党代議士が反対に回ったため、不信任案は否決された。

「首相はペテン師だ」

 だが、その後も菅首相は辞めない。「一定のめど」について明確にせず延命策を弄している。これに鳩山由紀夫前首相が「首相はペテン師だ」と罵り、首相を支持する岡田克也幹事長に対してはウソつき呼ばわりするなどの醜態劇が演じられた。東日本大震災という未曾有の国難に直面しているさ中の、被災者不在の政争は決して許されない。

 「指導者が辞める辞めないで政界が激しく揺れている。首相が自ら見え透いた延命策を弄するという破廉恥さは、極めて見苦しい。国内外の不信を招くばかりで益もない」(政界関係者)。こうした見解は、もはやほとんどの国民に共通していよう。それなら、菅首相を反面教師として、

宰相にはいかなる資質が求められるのか―。

 第一に必須なのは、愛国心で身も心もあふれていることだ。一国のトップに愛国心がなければ、国を正しく導こうとする強い意思は生まれてこない。菅首相は2003年の総選挙の際、党代表としてテレビCMに登場し「日本が好きです」と訴えた。「好き」と「愛する」とでは次元が全く違う。「愛する」とは国のために滅私奉公する気概を持てるレベルであり、その無私の精神が求心力を生みリーダーシップを発揮する源となるのである。

 それは国旗・国歌に対する姿勢としても表れる。「国旗・国歌」法案の採決で反対票を投じた菅首相に、愛国心があふれているとは言い難い。今では、たまに行う記者会見の始めと終わりに、会見室にある「日の丸」に一礼しているが、心なく儀礼的に済ましていることの空虚さを政治部記者たちは見抜いている。

 宰相なら、さらに国旗を“誇れる”よう自国の歴史を学び、日本人の美質を探求してアイデンティティーとは何かを指し示し、国際社会の平和と安定に貢献して日本が他国から愛されるよう対外政策を定めるべきである。

他国にも希望を与える政治

 ウィルソン米大統領は、1911年7月4日の独立記念日にフィラデルフィアで「愛国的な米国人が自分の戴く国旗(星条旗)を最も誇らしく感じるのは、米国旗が米国民自身に対してだけでなく、他国民に対しても希望と自由の象徴を意味するようになるときだ」と語った。つまり、愛国的な国民が国旗を誇らしく感じるようになるために、国旗の歴史とその哲学的意味合いを理解し、他国にも希望を与え得る政治を行う意義を強調したものだ。もちろん、それらは国益を踏まえた上でのことだ。昨年起きた中国漁船衝突事件では、日本側は中国人船長を起訴しないまま処分保留にして釈放することで幕引きを図った。中国側の要求をのまなければ日本が全責任を負うことになるという温家宝首相の威嚇に首相が恐れをなしたからである。尖閣諸島や北方領土、竹島などの主権にかかわる領土問題でも首相の弱腰姿勢は変わらない。

 1982年に起きたイギリスとアルゼンチンが交戦した南大西洋でのフォークランド紛争では、「鉄の女」と言われたサッチャー英首相は「人命に代えてでもわが英国領土を守らなければならない。なぜなら、国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」と語り、約3カ月の戦闘の末、奪還した。

 菅首相は領土問題で主権が犯されているのに遺憾表明を繰り返すだけというのではだめだ。国家、国民の生命と財産を死守するため、国益を堂々と主張できる胆識(胆力と識見)を持たねばならない。

理想の国家ビジョン

 第二に、首相には理想的な国家像を示すビジョンがなければならない。市民運動家上がりで、成り行きで総理大臣になってしまった菅首相にどういう思想があるのか。

 首相は2010年6月11日の所信表明演説で、「政治学者である松下圭一先生に学んだ『市民自治の思想』」を自らの政治理念の原点だと語った。自著『大臣』では、「私の憲法解釈の基本となっているのは、松下圭一先生の『市民自治の憲法理論』である」「松下理論を現実の政治の場で実践すること」が基本スタンスだと述べている。

 だが、この松下理論には「国家観念は必要ありません」とか「複数政府信託論」などの言葉が使われ、国籍を問わない外国人をも含む市民による地方自治の確立を目指すことが説かれている。つまり、地方に権限を委譲する地方分権ではなく、地域に主権を与える地域主権の強化を指向するもので、これが推進されれば国家の統治力が弱まり、国家の解体に結び付いていく危険な思想なのだ。

 菅首相は学生時代、「全学改革推進会議」のリーダーで、「マルクスには懐疑的だった」と述べたことがある。だが、マルクス主義者でなかったということをもって革命論者ではなかったということにはならない。暴力を使わずに国家を転覆するという革命戦術を実行する構造改革論者だったのだ。その戦術は「白アリ」戦術と呼ばれる。白アリが家の支柱を知らず知らずのうちに時間を掛けて蝕み、倒してしまうのと同様、国民が気付かないうちに国家の柱を「改革」という名の下に弱体化させ、いつの日にか国家を根底から解体してしまう、というのが構造改革論者の戦術なのである。首相が『大臣』の中で、「革命とも言える大改革の中にいる」と興奮気味に述べたこともそれを示唆していよう。

国家の危機

 首相のビジョンが国家の解体に向かうものであるとすれば、即刻、首相を政治の場から退場させねばならない。そのことを、保守系政治家がはっきりと認識し国民に警鐘を鳴らして対処しなければならないのにそれが行われないこと自体、国家の危機を象徴していると言わなければならない。

 国家の理想を追求するにあたっては大義が必要である。フランスのドゴール第五共和制初代大統領は「フランスは、偉大な事業に取り組んでいない限り真のフランスではない」と語った。「真の日本」であるためにわが国に必要な大義とは、日本国憲法の前文にある「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」との立場から世界平和に貢献する試みに全力を挙げることである。

 「大義」という言葉を余り使わない菅首相が、自民党の比例代表で当選した与謝野馨氏を経済財政担当相に起用した際に、「国民利益のための改革を実現する大義」だと語った。しかし、国際政治の上で日本が果たすべき役割に関して使ったことはあったろうか。日本と同盟関係にある米国が、自由世界の安全保障に責任を持ち、貧しい国々の数十億という人々と自由と繁栄の実を共有することに献身している大義に歩調を合わせることが求められよう。途上国などへの経済支援はもとより、集団的自衛権の行使など日本の安全保障に直結する問題も、こうした観点からアプローチして憲法改正案づくりをする必要もあろうが、首相が改憲に全く関心を示していないのは問題だ。

第一級の人物は深沈厚重

 首相のあるべき器量も問われねばならない。中国の古典に『呻吟語(しんぎんご)』という政治哲学や人間修養などについての書がある。明の時代に呂新吾が書いたものだ。それによると、第一級の人物とは深沈厚重(しんちんこうじゅう)で、第二級は磊落豪雄(らいらくごうゆう)、第三級は聡明才弁(そうめいさいべん)だという。

 簡略して言うと、深沈厚重の人物とは、物事を熟慮して目立ちたがらず、目先の事に動ぜず確固とした信念の持ち主のことである。磊落豪雄とは、細かいことにこだわらず度量が大きいこと、そして聡明才弁とは頭の回転が速く言葉が巧みなことだ。この点から見ると菅首相は第三級の部類と言えよう。

 しかし、政治から「真心」が抜け落ちていることから判断すると、政治家としての評価はもっと低級にランクされていい。首相は東日本大震災の復旧・復興のために続投していると主張しているが、ホンネはそれを〝大義.と装って利用しているだけに過ぎまい。首相は6月11日、津波の被害を受けた岩手県釜石市を視察した際、被災者へのメッセージとして寄せ書きを求められ、「決然と生きる」と書いた。この言葉は首相が政権意欲を示すために書いたもので、被災者へのお見舞いや激励の言葉ではなかった。被災者のことより自分の延命で頭がいっぱいだったに違いない。

火事場のもみ消し

 大震災発生当日の3月11日は首相が進退を迫られる正念場の国会質疑だった。首相自身にかかわる外国人違法献金疑惑の質疑が行われていたのだが、当時、類似の政治資金規正法違反で前原誠司外相が辞任に追い込まれたばかりで、それよりも献金額の多かった菅首相が退陣に追い込まれるのは不可避とさえ見られていた。

 ところが、大震災発生により皆の関心が震災対策に向かっていたスキに、さっさと違法献金を返却していたのだ。「聡明」というより、強い自己防衛本能と悪知恵の持ち主だとも言えよう。

 これにより野党側の追及が弱まることになったのだが、国家・国民が震災・原発処理で奔走していた最中の姑息なもみ消しに、被災者は深く失望した。国民を愛する無私の政治からはほど遠い醜態である。

 それどころか、罪隠しを率先して行って恥じず、震災復興の責任者として頂点に居座っているのだ。これほど国民の道徳心を傷つける悪業はない。

信なくば立たず

 『論語』に「民免れて恥なし。これを導くに徳を以てし、これを斉(ととの)えるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格(ただ)し」とある。人民は法律の網をくぐり抜けても恥じることがない。人民を導くのには道徳をもって行い、統治するのには礼節をもって行えば、人民は恥を知りその身を正すようになる、という意味だ。

 孔子は「仁義礼智信」の徳を備えた君子が率先して人民に道徳を植え付ける政治を理想として掲げたが、菅首相はそれらの徳目とは無縁のようである。「首相免れて恥なし」というのでは、民心は政治から離れていく。「信なくば立たず」であり、これでは学識豊富な官僚群を政治主導で掌握すると意気込んでも困難だろう。

 昨今、毎年のように首相が代わり、海外の政治リーダーたちも困惑の色を隠さない。

 わが国に今、待望されるのは、国内外から尊敬される指導者の出現である。その指導者とは、文化の香りの漂う世界平和を希求する国家の実現に向けて尽力する、有徳で愛国心があふれ胆識と覚悟と廉恥心を兼ね備えた人物だと言える。