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鳥取・智頭町長 寺谷誠一郎氏に聞く/小さな町の「大きな夢」物語(中)

火をつけた青年の闘争心

一人から開かれるフロンティア

 平成の合併問題では、ただパイを大きくしてもだめだと思った。それで住民で決めなさいということで住民投票となった。勝つ自信はあったが、どっこい100票ぐらいの差で負けた。

 智頭町民の多数決による総意は「鳥取市と一緒になるほうがいい」ということだった。

 それで私の持論は合併ではなく単独生き残りだから、私がいる意味がなくなった。私はスパッとやめた。

 そうしたら議会が、100票ぐらいの差だとフィフティーでほぼ半々だ。議会としては合併はしないと決めた。それでひと悶着あったが議会には最終的な権限がありますから、単独になったからもう一度、私に出て来いと言ってきた。

 出て来いと言っても、こちとらは潔く切腹して、まだ絆創膏をはっても血がたらたら出ている最中だ。あんたたちが言ってきても、はいそうですかと出る馬鹿はいるか、と言って断った。私は二度とやくざな世界には帰ってこないと捨て台詞を吐いて、本当にやめた。

「俺たちと闘ってくれないか」

 ところが、前の選挙から4年たって4カ月後には選挙があるという時期に、ある智頭町の若者が私に会いたいと言ってきた。

 会ってみると「寺谷さん。あんたもう一回出てくれないか」と言う。

 「どうして」と聞くと「智頭町の若者から見ると、今の智頭町は真っ暗なトンネルに入っているみたいだ。光が見えない。俺たちは真っ暗闇でも何とか立っていることができるが、子どもや爺さん、ばあさんをいつまでも、立たせておくわけにはいかない。だから少しでいいから、ドリルで穴を開けてくれ」と言ってきた。

 あと光が見えたら、あとは俺たちがやるからと言う。

 「じゃ、俺はワンポイントかよ」と言うと「そうだ」と。

 「そんなのね。若い人たちがやれ。できるから。何でも始めがあるものだ」

 それでも「いやワンポイントでいいから、光だけ見せてくれたらいい」と言って聞かない。

 「しかし、私も賞味期限が切れて、後期高齢者の仲間に入るのだから、だからあんたたち、若いものがやれ」と言うと、いや「さばの塩漬けも戻せば味がでる」とか「冷凍食品もボタンひとつで解凍できる」とか好きなことを言っていましたな。男女30人ぐらいがグループを組んで私に仕掛けてきた。

 それでも、まったくなるつもりはなかった。ところが、その中のある奴が、「寺谷さん、俺たちと一緒に、この町のために俺たちと闘ってくれないか」とポンと言ってきた。

 本心では「えッ!」と思った。

 この町の若い連中が、「闘う」なんて言葉がまだ残っていたのかと、ある意味で感銘を受けた。

 ただ、瞬間「えっ」と思ったが、すぐその思いを心に封じ込めて、「だめだめ」と言い続けた。

 「この中の30人ぐらいいれば、誰かができるから、やりなさい!」と。

 そうした形で、別れた。ところが、彼らが何をし始めたかというと、寺谷を町長に出そうと、署名運動を始めた。

 最初は馬鹿なことをするね、と思った。すぐ、こうした炎は消えてしまうからと、放っておけばいいとうっちゃっていた。

 それが意外にもどんどん燃え広がっていって、電話がかかってきた。「2500人集めた。これを見てくれ」と言う。そんなものを見てしまえば「俺は出ない」とは言えなくなる。だから「見るのはいやだ。手に触れない」と言ってきた。

闘うど素人集団

 そうしたら若いグループの30 人たちが押しかけてきて、俺たちも必死なんだと言い寄ってきた。

 すると、家内が「あんた何やっているの。ここまで言われて、じくじくしているというのは男じゃない」とカツを入れてきた。

 「いってらっしゃい。いい仕事をしてきなさい。そのかわり、いい仕事しないと家に帰らせない。給料なんてあてにしないでいい。私が養ってあげる」

 本当にそう言った。

 それで、決まった。

 ただ条件がある。僕は君たちに要請された。町には12名の町会議員がいる。私がここで出ると言ったら、必ず彼らがあなたたちを使う。選挙では現職との戦いになる。

 町会議員は選挙のプロだから、「ああしろ、こうしろ、票集めて来い」などと指示を出す。僕はそれはいやだ。返事がイエスかノーと言う前にちょっと、この連中を集めるから君たちも集まって来い。町会議員の目の前で、私が彼らに選挙では引けという。若いやつらが仕掛けたのだから、同じ乗るなら彼らに乗る。ただあなたたち町会議員がいないと、負ける可能性が高い。しかし、私にとってはそれでいい。

 闘うど素人集団で、町づくりの闘いが始まった。

 そうすると町会議員たちは機嫌が悪かった。俺たちをないがしろにして、やれるものならやってみろと言ってふてくされている。それで、除外するのではなくて彼らの後ろについてくれ、先頭集団のバックに、だったらいいだろという約束で選挙に入った。

 素人集団だから、勢いはあるがどうやっていいか分からない。それで落ちてもいいと思っていた。彼らの気持ちを汲んで、一緒になってやらないとだめだと腹だけは据わっていた。

すごい若者の適応力

 そして選挙が始まった。マイクを若者にさっと渡すと、その若者は震えている。いざマイクを持たすとあがってしまって固まり、何も言えない。

 次の場所に行ってぱっと渡すと、深呼吸してぼそぼそと言い出す。そして3回ぐらいたつと、おどおど言い出す。だが若い人の適応力はすごい。いろいろなところを回り8回ぐらいになると、ちゃんと言う。

 一瞬に場慣れして、堂々と言い出す。9回目になるとマイクを離さない。若い女の子も私にもやらせてくれと言いだし、それで「ブルン!」とエンジンがかかったなと思った。

 それで結果的には3年前、町長に当選することができた。

 まさか、こんなことになるとは夢にも思っていなかった。

 ただ余りにもリーダー的な組長がいない。どうしてなのか。要するに、北海道から九州まで予算漬けというのは、執行部が教育費がいくら、建設農林はいくらとか、予算を作る。それを議会に提出して承認されたら、正式に予算編成ができる。予算案を議会で通してOKがでたら、初めて町民にこうですよと言える。

100人委員会で町民の気持ち汲む

 しかし、その予算の数字に町民の気持ちがどれだけ入っているのか、あやふやだった。陳情を受けるけれど、はっきり自分たちのやりたいことはこうだといったものがきちっと見えない。それで真っ先に100人委員会を作った。

 教育に興味がある人は、ばあさんでも爺さんでも、女性でも誰でも来い。観光に興味がある人や、農林業に興味がある人など、応募したら集まった。一年間、それぞれ、観光なら観光に関して、農林なら農林事業の夢を語れ。何でもいいからと後押しした。

 4月からスタートして12月には、私が幹部を集めてヒアリングした。

 すごいなーと思った。私たちが思いもつかなかった意見が一杯あった。

 よし、そういうすばらしい意見なら予算を直に付けましょう。

 ところが議会が猛反発する。町長何やっているんだ。俺たちはちゃんと選挙で出てきて、町民からの付託で仕事している。任せられているのに、勝手に予算を付けるというのは俺たちを軽視していると言うのだ。

 すごいブーイングですよ。そうはいっても自分たちは考えない。チェック機関だとかぐじゅぐじゅ、言うだけ。

 それで私は「いいじゃないか。私が予算を付ける。そうすると予算書というのが議会にあがってくる。そのときに、気に入らなきゃ、チェック機関だから、承認できなければ切ればいい。ペケにすればいいじゃないか」と言った。

 すると「いやー、町民がせっかく言ったものを、俺たちが否決すると、次の選挙がある」と言う。

 それぐらいのレベルなんですよ。

 まーいいじゃないかと言って、強引に100人委員会を立ち上げた。どこにも100人委員会というのはありますよ。いろいろな意見を聞く。しかし、意見を聞くだけで、予算までは付けない。予算を直接付けるというのは、智頭が初めてだ。

 ただ全部に、付けるわけでは無論ない。ヒアリングしてやる。

智頭町三輪車体制

 執行部と町長は両輪でなければならないとよく言われる。

 ただ二輪車は左右には倒れないけど、前につんのめったり、後ろには倒れる。

 それで、これでは駄目だ。ということで、私は三輪車にした。

 町民がいるから役場も必要、職員も必要、リーダーも必要。でも職員なんか結局は、まず自分のことですよ。最初は役場に入ったときは、町民のためにと必ず思ったはずだ。ところが3年、5年、10年するとね、町民のことなんか後回しですよ。長くなるとなるほどね。それじゃだめだ。

 40歳ぐらいのお母さんが、私に会いたいとやってきて、「政治は分からないけど、日本というのは変な国ですね。減反でお米を作っちゃだめだと言う。外国から米を輸入している。それがカビがはえて、全部燃やしたと言う。よく分からない。私には4人子どもがいる。同じ年齢のアフリカの子どもは、餓死している。私はじっとしていられない。うちの子が死ぬような気さえしてくる」と言ってきた。

 「どうしたいの」と聞くと、「私は貧しいから、田んぼも畑もない。減反して使っていない田畑を、町長の力で貸してください」と言う。

 そんなことは国策だからできないけど、あーそー。百人委員会に入っているかと聞くと、入っていると言う。

 よーし、もっと言えと、後ろからこれも扇いだ。

 そうしたら中から、じゃー減反でだめなら、お年寄りも増えて、田んぼなんか.放ったらかしの人がたくさんいる。俺たちが借りてやると、それに予算を付けた。

 その借りた人たちが、アフリカの人たちのために田植えをしようというときに、鳥取大学の学生がボランティアでやってきた。それから、アフリカから来ている留学生、京阪神からも話を聞いて、子どもたちに田植えをさせたいと言ってやってきた。

 ぜんぜん、知らない人たちだ。それで田植えはできた。

 そしたら稲が黄金色に実ったころ、ケニアの大使から電話がかかってきて、実っているところを見たいという。係がケニアの大使が来たいと言うけど、どうしますかと聞いてきた。

 「予算なんかないですよ」と言うから「何とかなる」ってOKを出した。

 次の日に「奥さんも連れてきていいでしょうか」と言う。

 「いいから、いらっしゃいと言っとけ」と。

 それから2 日たったら、また電話が来て「子どもが2人いるからどうか」ときた。

 こうなると、もうやけくそだ。

 それでケニアの大使が東京からやってきた。講演してもらおうということで、夜はパーティーを開催した。うちの奥さんに予算ないからと言うと、いいから何とかすると言う。

 稲が実った。ボランティアが集まって稲刈りだ。それを送る必要がある。送るのに予算を付けたが、ただ送っても途中で抜かれて危ないと言う。

 よっぽど、きちんとしないといけない。すると読売新聞が東京から、100万円応援してあげようと言う。それから、商社の三井物産から、私のほうに、何か困ったことがあったら、相談にのるよと言ってくれた。いろんな人から、いろいろと世話になりながらプロジェクトは進行した。

 この間、大使館から電話があって、大使が会いたいと言う。忙しいからと言うと、いやそれでも来ると。何しにくるのかと聞くと、お酒のみに来ると言う。

 そうしたら田んぼを借りた地域の人や子どもたちが国際交流しようと言う。ボタンをひとつ押すと、いろいろ波及効果が出てくる。たった一人のお母さんが言っただけなのに、プラス効果がいろいろ出てくる。

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