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インタビュー 衆議院議員 木村太郎氏に聞く

東日本大震災、犠牲者少なかった青森県東部

生かされたチリ沖地震の教訓

 半年前の東日本大震災では、太平洋に面した青森県東部でも大きな物的被害を出しながら、人的被害は極端に少なかった。それはチリ沖地震を教訓に、避難対策を強化していたためだった。だから青森沿岸部でも8?9メートル級の津波が襲ってきたものの、対象の沿岸住民は、水際だった山間部への避難で多くの人命が守られた経緯があるという。「青森のプライド」を持論とする衆議院議員・木村太郎氏に聞いた。


北前船の径路で被災地に燃料補給

 まずは、東日本大震災の被災者の皆さんに心からのお見舞いとお悔やみを申し上げます。

 ──青森県弘前市を中心にした地域が選挙区ですね。(選挙区は)同じ青森県でも、震災の影響は比較的少なかったようですね?

 そうです。

 (青森)県内でも、八戸市を中心とした太平洋沿岸部は、誠に残念ながら、死者3名を出してしまいました(※取材時現在)。私の選挙区、青森4区は、日本海側ですから、震災の影響は大きくはありませんでした。

 ただ、この大震災はいろいろなことを考えさせられ、また感じさせてくれました。それはむろん、否も応もないところで、ということなのですが…。

 例えば、青森県内の死者数ですが、太平洋側沿岸の地域を擁しているにも拘わらず、この数は決して多いとは言えません。岩手県や宮城県、福島県との比較は意味のないことですが、あれだけの大震災で、被災地といわれる地域を抱えていて、この数字はある意味考えさせられるところがあるのです。

 それは、2010年に起きたチリ沖地震(※チリ沖地震は数度起きている。10北前船の径路で被災地に燃料補給年の時の地震は、2月27日に発生。この時は、地震・津波による犠牲者は出なかった。チリ沖地震で、特に大きかったのは、1960年(昭和35年)5月22日に発生したもので、この時は、東北太平洋沿岸部で、大きな被害が出ている)から引き継がれていた〝教訓〟なのです。あの地震でも津波は発生しました、ええ、やはり太平洋沿岸部です。

 あの地震の時に、青森県はこれまで以上の地震と津波への対策、特に避難という意味での対策を徹底的に立てたのです。

 その対策が、今回の地震では大変、役立ちました。青森の沿岸部でも8?9メートル級の津波が襲ってきましたが、(津波が)襲来してきたときには、すでに対象の沿岸住民は、非常に手際よく山間部に避難しました。それは水際だった避難だったと聞いています。

 私は震災後、現地を視察いたしましたが、我が国有数の漁港である八戸港は、確かに甚大な被害を受けていました。

 『ああ、これは震災前の平常に立ち直るまでに相当な時間が必要であろう』。

 私は大きな暁光の中でため息と共にさらに大きな被害状況を眺めたものです。

 しかし、そんな物的な被害が出ながら、被害者数は最小限ともいえる数値でした。これは、間違いなく過去の教訓が生かされたものだと確信したのです。この地震・津波に対する避難の状況は、間違いなく青森県が誇っていい〝プライド〟だと感じています。

 もうひとつ。今回、被災地においてまだ燃料が不足していた時期に、日本海側から鉄道で(燃料を)運搬しましたね(※JR羽越線、奥羽線を経由してタンク車で燃料を運んだ)。

 これは江戸時代に盛んだった北前船が取っていた径路なんですね。当時、多くの物資はこの北前船の径路で遠く都に運ばれていました。この径路はいわば「我が選挙区」に、物資だけでなく、文化やあるいは考え方などももたらせた、とても重要な〝道〟なのです。供給されるだけでなく、こちらの文化、物資を供給していたわけで、いわば「我が選挙区」における物質的、あるいは精神的な支柱もあるのですね、この〝道〟は。それは、やはり〝プライド〟なんです。

 この〝プライド〟は、文字通り「我が選挙区」の真ん中を貫いています。そこを今回、いち早く開き、そして実際に使って、被災地に燃料を運んだ。ここでも、「我が選挙区」の〝プライド〟がクローズアップされた。大きな感慨です。

 ──災害に対する対処、あるいは、何世紀も前に先人たちによって開かれた〝道〟というのも、地域の〝プライド〟まで昇華できるものなのですね。このことは、行政という局面においては、今後につなげる大きな〝教訓〟ですね。新しい目を開かされた思いです。

 さて、「我が選挙区」青森4区ですが、具体的な地域について改めてお聞かせください。

 弘前市を中心とした、いわゆる津軽地域一帯が我が選挙区、ということになります。

 主な都市を挙げますと、黒石市、平川市、つがる市、鰺ヶ沢市、深浦町、大鰐町、藤崎町、田舎館村、浪岡町、こんなところですね。実は青森市の一部も、我が選挙区に入っているのです。

 ──どのような地域なのですか?

 弘前というのは、青森県における教育の都、さらには軍都なんですね。青森県の国立大学弘前大学、また陸上自衛隊第九師団があります。(※新田次郎原作『八甲田山 死の彷徨』でつとに有名な、八甲田山雪中行軍遭難事件は、現在のこの師団である。当時は日本陸軍第八師団であった。弘前ルートは、遭難しなかったが、八戸ルートを取った部隊は壊滅的な遭難となってしまった)

 また、農業は実はかなり盛んで、〝やませ(山背)〟(※春から秋にかけて北東北を中心に吹く、冷たく湿度の高い風のことをこう呼ぶ。東風である。場所によって、この風を悪影響としたり、また正反対に、宝風などと呼ぶところもある。太平洋側は前者だが、日本海側は、この風を利用した農作物の栽培をする地域もあって、〝やませ〟に対する印象は地域によって様々のようである。筆者注)を利用した畑作などは、様々な色のいい作物を育んできました。本州最北部ということで、ただ極寒、荒れたグレーの日本海だけ、というようなイメージを抱く方もいらっしゃいますが、そこは実のところ、農作物の収穫品ひとつとっても、色とりどりなのですよ。

 ──もっとも、ことリンゴに関しては日本一、いや、世界一の地域として自他ともに認められていますね。

 これはもう、説明の要なし(笑)。津軽のリンゴは世界一です。ことリンゴにおいては、積極的に輸出もしていますし、受け入れる国々では、超がつくほどの高級品として丁重に扱われています。ここには、これからの我が国が目指していくべき〝攻めの農業〟が具現化されています。アイテムごとに、この〝攻めの農業〟が確立されていけば、我が国の農業もグンとステップアップしていくはずです。農業の将来の指針が、世界一の津軽のリンゴにあるということですね。

 リンゴの栽培というのは、いろいろな方面にとても興味深い影響をもたらせています。その一例が、弘前城の桜にあるのですね。

 弘前城の桜というのは、4月下旬から5月上旬が見頃ですが、私から言わせれば、この桜は日本一なんですね。いや、まさしく日本一なんです。それは百聞は一見にしかず、ですが、桜日本一ということは、すなわちこれも世界一、ということになるわけです(笑)。

 桜の花の付きが最も多いのが、我が弘前城の桜なんです。それは実に濃いのです、花が。満開ともなれば、もうそれは桜色のドームがそこにあるようなのです。

 何故、このような日本一、いや世界一の桜となったのか。この桜の剪定をはじめとした管理に、実はリンゴのそれを応用したのだそうです。リンゴの木の剪定方法を桜に応用した、ということですね。それで、見事な桜となったのです。

 私はこの文化の継承にいつも感動するのです。桜のドームの下に佇たたずみ、我が選挙区の誇り、リンゴに思いを馳せる、私の春の至福の時間です。

 ──そこには、二つの〝世界一〟の融合があって、それがやはり、選挙区の誇りとなっている。その下に佇む。それは確かに至福のお時間でしょうね。羨ましい限りです。

 世界一の幸せ者ですね、私は(笑)。

 もうひとつ。やはり我が選挙区は、四季がハッキリしていて、それぞれにいい場所、いい環境、いい空気が流れているのです。もうそれは枚挙に暇がありません。

 先ほども申し上げましたが、何だか津軽地方というと、ヒット曲のイメージか、あるいはテレビドラマの影響か、どうも暗い、というか、終焉とでもいうようなイメージができあがっているようで、なんとも歯痒いのですね。荒れた海の岸壁に一人ポツンと立っている恋に破れた女…(苦笑)。いやいや、そんなんじゃないんです、我が選挙区は。鮮やかな色に満ちた、とても明るい地域なのです。文化的な水準も高い。古い歴史の上に築かれた厚みのある文化が根ざしています。

 私は、この明るい地域をこれからもっともっとアピールしていきたいと思っているのです。選挙区の代表として。

 ──津軽に対する意に添わないイメージを大いに変えて下さい。そこで、気になるのは選挙区のお薦めのスポットは、どこ? ということですが。

 日本キャニオン(深浦町松神)と呼ばれる景勝地、その中にある十二湖、世界遺産に指定されて一躍有名になった白神山地の中にある暗門の滝(中津軽郡西目屋村)…(※写真参照)。先ほど枚挙に暇がない、と申しましたが、その通りでしょう? これらのスポットはまた四季それぞれに、いい表情を見せてくれます。

 弘前市にある最勝寺は、実は私のパワースポットなんですね。しだれ桜に五重塔。ここはいい。私は原点に立ち返りたいときに、ここに一人で立ち寄ります。ええ、誰にも言わないでね(笑)。そして、じっと耳を澄ますのです。自分のやるべきことが、ふわっと頭の中に浮かんでくるのですね、不思議なことに。静謐ないい場所です。

 それから、弘前市には、禅林街(同市西茂森町)という、寺が林立する路地があります。ここも素晴らしいパワースポットです。特に長勝寺というお寺から臨むこの街は、京都あたりにも負けない古都の佇まいを体感できます。こんなところが、実は目白押しなんですね。ああ、自分だけのものにしておきたい、というジレンマが出てきますね(笑)、おいそれと、教えたくないという…。冗談ですが(爆笑)。

 ──とてもあでやかな色で満たされた選挙区ですね。議員がそんな誇るべき選挙区から政治家として立ったわけですが、国政で何をしていくのですか? 政治家としての原点をお聞かせ下さい。

 私は(政治家となった)最初から貫いているのです。

 『故郷を豊かにしたい』、ということを。

 我が選挙区、我が青森県は、いわゆる出稼ぎ世帯が一番多い地域なのです。私自身、子供の頃から、そんな出稼ぎに行く父親がいる家庭を見てきました。私も少なからず出稼ぎに行く父親を持つ友達がいました。その家族そのものが私の原点なのです。これがわが故郷の現実でした。スタッドレスタイヤを履いた車が当たり前。これも現実です。これらすべてが、私にとっては愛おしい。しかし、それだけでなく、その愛おしさに少しでも豊かさがもたらされれば─。

 私は、そんな愛おしい故郷を豊かにしたい、それが私の使命と思うようになりました。おこがましいとの誹りは受けるかもしれませんが、私は故郷に豊かさをもたらせる仕事をしたい。

 それが私の政治家としての原点となり、もちろん、これから先もずっと持ち続ける理念なのです。

 ──選挙区が持つ〝プライド〟を常に携え、これからも頑張って下さい。今日はありがとうございました。

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