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インタビュー 三重県松阪市市長 山中光茂氏に聞く(下)

選挙絡みの政局に巻き込まれ

ものが言えない市長では情けない
子ども手当て反対の烽火最初に

──青年市長会はアグレッシブに動いているが、何を目指すのか。

 腹積もりは余りない。青年市長会は私の市長就任前から、もともとあったものだ。30代、40代が青年市長会だが、実は市長会を通じてとか、三重県市長会とか東海市長会とかあって、今後、一緒に連携していこうとか、理念でなく具体的な提言をさせてもらう。

 全国市長会でも、発言したのは私だけだった。

 全国市長会の森さんは、ヘナチョコですべての顔色を伺う。全国の市長さんの顔色を伺うというなら分からなくもないが、現場が分かっていない国会議員の顔色を伺う。政局的な顔色を伺うような市長会なので、市長会では9割の方が現場の空気であるとか分かっていながら、全くものが言えない。なぜかというと、9割の方が、民主党なり自民党なりのしがらみがあるから、政局の中でものが言えなくなっているからだ。本当に情けない限りだ。市長のほとんどが相乗りの方で、政権政党の波に乗って、通ったりとか、現場を知っていて激しく言う時はあるものの、最後にまとめようとしたとき、いろんな部分で圧力で押しつぶされる。

 私もいろいろと押しつぶされましたけど、市長会として団結はできにくいものがある。森会長は、はっきり言わしていただいて、人は悪くないが典型的な八方美人型だ。

 この前も全国市長会で菅総理(当時)が、800人の市長を前に、ペーパーを「3・11以降、一緒になってがんばりましょう」と5分ぐらい、だらだらとつまらない文章を覇気がない形で読んだ。

 普通、そういう場で総理大臣だったら、みんなで一緒に具体的にこうやろうとか、お願いするとかすれば、変わることはよくある。しかし、そういう中でも、総理大臣がポジティブな提言を出せない。

 その後、手を上げて次のことを言わしてもらった。

 別に、国に頼る必要がない。800の地方自治体が集まったなら、マッティングしてできるじゃないか。今でも自治体がそれぞれの立場でやっているが、松阪市が事務局を担当するので、被災地のそれぞれの地域を3つ、4つのグループが支援する形を作っていこう。

 松阪市はモデルとして、陸前高田で応援センターを作ってやっている。そうした格好で各自治体が、職員のローテーション派遣であったりとか、市民からの金や物品や情報交換とか、やっていければすごく力になるのでやりましょう。うちが事務局しますよ、という話をした。

 松阪市に地域間をマネージメントする権限だけ与えてもらったら、各地域と被災地域が結びつくことによって、地域の企業とか市民パワーも結集できる。市長会でもマネージメントができていなくて、向こうの現地にまかせっきりになっている。市長会の森会長に、こういったことを打診しても、市長会でやるべき仕事とは思いませんと言う。国からも指示が出ていないし、それは国がやるべきことで、国の方に要望を出していきましょうと。そういうレベルだ。

 ただ、自分たちで動こうという気概がある首長が少ない中で、私が副会長している青年市長会には、そういう気概がある方は多い。自分たちでやるべきことは自分たちでやろうと気構えがある。

──子ども手当ての反対活動であったり、いろんな形で国に対し積極的に発言しているが、子ども手当て反対の理由は何か。

 多分、私が全国で最初に反対したと思う。ちょうど2年前の11月、私自身が子ども手当てをボイコットすると言い始めた。厚生労働委員会にも参考人で呼んでもらった。

 当時、松沢さんとも組んでいた。ただ、松沢さんはマニフェスト違反だとか、地方負担に対する反論が軸になっている。私はそういうものはどうでもよくて、マニフェスト通りなら松阪市の子ども手当てというのは76億円になる。76億円というとどんなものかというと、松阪市の個人住民税と同じ額だ。河村さんは5%とか、けち臭いことをいうてますけど、もし子ども手当てがなければ個人住民税をゼロにできますよ、そのぐらいの額だ。さらに76億円というなら、駅前の再開発を毎年やったりとか、毎年、保育園を30園ぐらい作れたりする額だ。

 また、高齢者の介護保険料と後期高齢者の医療費と国保税の、この3つ合わせても70億円。これをすべて無料化できる。それを家庭に配って、国が政策としてやるべきことなのか。お金の使い道の優先順位というのを本当に民主党政権というのが議論して政策的に考えたのかと問い質したのだ。

 ちなみに、これまでの児童手当が13億円だった。そのギャップが60億円弱あることを考えたら、60億円でできないことは何があるのかという問題もある。

 小児医療でもいい。国が主体的に小児医療の体制を作ってもいいじゃないですか。松阪市だけで60億円のギャップなら、全国ではすごいギャップがある。それを逆に、市町に丸投げしてくれれば、どれだけでもすばらしい政治ができますよ。市民にも子ども手当てがもらえないことを納得してもらいますよ。

 そういうことを市長会でも言い続けてきたら、市長会の中には、そういう市町に裁量を与えられたら、地域で差が出るようになると反論する市長もいた。

 だが、首長というのは市民から選ばれたので、差が出ていいのと違いますか。ほかの町がよかったら、まねをすればいいだけの話だ。

 国も、地域の方がお金の使い道が分かる部分は、もっと地域にまかせるべきだ。政策があるのだったら、政策の優先順位を明確にして、お金の使い道を考えたらいい。

 だから、住民税と同じ額の子ども手当てを、あほあほと配るような、こんな制度は松阪市はボイコットしますと、市長就任1年目に言わしてもらった。自治体の中で最初に言った。

──子ども手当てというのは、票目当ての単なるばら撒きだ。

 個別所得保障もそうだ。松阪市で4億円ぐらい入ってくるが、あれも中山間地域と平地部でまったく同じ額だ。ただ中山間地域では小規模が多いので使えない。耕作放棄地というのは小規模の山間部が多い。そこへの手当てがまったくなくて、もともと儲かっているような農家とか、楽をしてあえてやってないところに、金が落ちるような制度設計になっている。

 そういうのも民主党政権の典型なのだが、現場を見ていなくて、ただお金をばら撒いて、喜ぶところは喜ぶというアバウトな制度設計だ。子ども手当てでも、100円一人に対して払うのが違うだけで、どれだけ大きな財源になるか、そういう金銭的な価値観が全くない。現場感と金銭感覚が恐ろしくないというのが、今の民主党政権だ。

──アフリカはいつ行ったのか。

 27歳ぐらいの時だった。最初に行ったのは南アフリカだった、2カ月。長期で行ったのがケニアだった。岩手県の方で岸田さんというのが、ケニアの孤児支援をやっていた。たまたま岸田さんが日本に来ている時、構想日本代表の加藤秀樹さんから紹介してもらった。そうしたら10年前、岸田さんから「あんたケニアで医療活動しなさい」と言われた。医者の免許をとったばかりだった。自分はアフリカにずっと行きたいという気があったので、巻き込まれた。日本人ひとりで行って、水も電気もない、スタッフをひとり雇って、外務省の無償資金プロジェクトに応募して、3000万円3年間でもらって、その事業をやり始めた。現地の方と一緒にやる事業ということで、現地のエイズ対策であるとか、医療支援という形だったが、そのあとウガンダとかエチオピアを回った。

──松阪出身の本居宣長も本業は医者だった。

 世界に目を持っていたのが、宣長だった。国学者ということだが自由な遊び人でもあった。25歳ぐらいまではよく風俗に行ったりしていたとか、そうした日記も残っている。母ちゃんにお金を送ってもらう資料とかも残っていたりする。

──松阪は面白い町だ。明治の5年に東京で牛が売れるという情報を仕入れて、この町は売りに行っている。それで評判になって、松阪牛がブランドになっていった。そういうエネルギーに興味を惹かれる。江戸と伊勢神宮を結ぶ沿線にあって、情報に対する感性が違う。

 そう思う。本居宣長も情報網がない時に、全国の門下生が600人いたし、通信教育を先がけたと言われている。三井財閥もここで身を立てて、今の三井に仕上げていった。

──商都松阪の切り口にも興味がある。

 松阪商人の元祖は、近江商人の蒲生氏里だ。最後は会津若松に行っている。松阪そのものが、蒲生が岡町を築いたというのがきっかけだった。蒲生は当時、タイのアユタヤとか海外にも目を向けていた人物だ。

──それは近くに港町の津があったからだろう。松阪は小さなところだが、でかい世界とつながっていた。

 北海道の名づけ親というのが松阪出身で、松浦武四郎という。明治時代になって、蝦夷地は北海道と改められたが、この名前は松浦武四郎の意見がもとになったものだ。北海道の多くの地名も彼によって名づけられて、北海道には彼の碑とかたくさん残っている。

 明治時代、大久保利通に信頼されて北海道開拓使(いまの北海道庁)で開拓判官というのをやった人物だ。アイヌを守り、現地にあった開拓を推進していった。江戸時代、北海道というのは松前藩が支配していた関係から、既得権益とか本土から来た人を守ろうとする松前藩とはけんかして、アイヌを守り通した。勲位も返したりするとか、権力に媚びない人物だった。

──地域ブランドサミットの展望はいかがか。

 毎年、ローテーションで地域ブランドサミットが回っていくようになる。来年は登別、再来年が石垣市になる見込みだ。第1回目を松阪市で行う。イベントは祭りの餌みたいなものだが、ブランド連携の協議みたいな格好にできればと呼びかけたら、多くの自治体が乗ってきた。そこに企業も絡ませて、ブランド連携を進めていきたいというのが趣旨だ。

──提言者は山中市長?

 自分の方から呼びかけた。西村明さんと以前から交流があって、もともとアイデアはあった。

──松阪市とすれば、ブランドのメインに何をもってくるのか。

 当然、松阪牛となる。だが松阪牛というのは900日肥育という、非常に効率が悪くて、育て方においても伝統の技法を使っているので、正直言うと、行政支援をしないと儲けにならない。肥育農家の方も、海外とか地域外に対して、必ずしも出していきたいと思っている方たちばかりでもない。昔からの技法で、育てていきたいという肥育農家が非常に多く、プライドを持っている。

 地域の焼肉店やホルモン店、また肥育農家や販売ルートにしても、ある程度バランスがとれているので、これ以上、拡大しようとか、ブランド力をもっと高めようとか、そういう部分がない。

 但馬産の処女のメス牛で、肥育期間900日以上という特産松阪牛というのは、その割合がどんどん減っているので、それを守っていくと同時に、松阪牛ブランドというのを認識していただきたいのですが、商売からいうと採算が各事業者がとれているというわけでもない。

 実は、2回目の事業仕分けをやらしてもらった時、仕分け人の方が地域のブランド化を進めるうえで、協賛金とかもらえばいいじゃないかという提言があった。ブランドをPRさせるのに、事業者を甘やかせるのではなくて、それなりの資金を出してもらって行政がPRすればいいじゃないか、と言うのだ。

 私も市民には甘えるなというタイプではあるのだが、事情は少し違う。彼らはPRする必要性がないからだ。松阪牛のブランドに満足している部分がある。いいものをいいものとして残して、最低限の収入があればそれでいいといった基本姿勢がある。

 だから、街づくりに関わっていこうとか、ブランドを地域外にもどんどん進出させていこうとか、ブランドを海外にまで伸ばそうとか、そういうものがないだけに、逆に行政の役割の重さが結構あるというのが実情だ。

 民間が民間だけに自立して満足しきっているので、あえて戦略を立てる必要がない。そこが、他のブランド牛と比べても、逆に知名度がありながら、それを生かしきれていないという問題がある。ブランド力トップを持っている松阪牛として生かしていないというのは事実なのだ。それ以外の地域ブランドの育成であるとか、お茶も実は関西品評会というので産地賞をずっともらっていたり、農林大臣賞をもらっているとか、いろいろあるのだが、名前からいえば松阪牛だ。

 地域の観光であるとか、地域産業の活性化だとか、もうひとつ、市民を巻き込んで行政として生かす方策というのは今、検討しているところだ。

──50年後、100年後もブランドを維持できるのか。

 これまで、松阪牛を生かそうというのが市政の中でゼロだった。ただ、伝統文化を守って、肥育農家の方がたと牛の事務局を持つことによって、安心安全だとかブランド力の最低限のものは守り続けてはきたのだが、(ブランド力強化や認知度を広げていく)ブランディングであるとか、これからの発展的政策はゼロだった。

 それで市長に就任して松阪牛祭りを毎年、やらしていただくようになった。それと、関係者だけで粛々と牛の品評会をやっていたのを、市民に開かれたオープンなものにした。それまで、松阪牛が大好きな芸能人が、品評会にも参加資格までとって、毎年、来ておられたが、そうしたマニアックな人だけが来るだけだった。

 そうした意味で、これまで業界団体の関係者だけの松阪牛だった。それを、まず地域外の前に、市民に親しまれる松阪牛、市民に理解されている松阪牛にしたいというのが1点と、松阪牛のブランディングという2つに分けて考えているところだ。

 ひとつは海外戦略とか、地域外に展開するうえで、他の自治体は手を抜いているというか、外に出るために多少、品質は落ちても薄利多売といった傾向になる中で、松阪牛は逆に守るものは守ってきた経緯がある。

 ただ、守るものと対外的な戦略に関わっていくのと、二分化していくべきだと思っている。松阪牛の中でも900日肥育の但馬、兵庫県産の処女のメス牛という特産松阪牛というのは、松阪牛の中で実は6%だ。何が違うかというと、松阪牛の40%は宮崎県産で、口こうてい蹄疫の時、大変だった経緯がある。九州産が半分なのだ。なぜかというと500日、600日で早熟してしまう牛が九州産は多くて、但馬血統であればいいというルールがあって、九州産の子牛を但馬に持ってきて育てれば松阪牛になる。育て方によって但馬血統のものを、ただ、短期肥育だと同じ松阪牛でも味が落ちる。正直、普通の牛と松阪牛の差よりも、松阪牛と特産松阪牛の差が大きい。ただ、松阪牛として伝統的な肥育をしているので、味は悪くないが、昔ながらの伝統的肥育技法と長期肥育に適した但馬産の牛を活用したものというのはまったく違う。

 これは地域外に出すものではなくて、松阪に来ていただいて、「幻の松阪牛」として食べてもらえる特産松阪牛を、伝統の肥育を守るように行政と農家が一緒になって守っていく。その枠組みは崩さないでおくとともに強化していく。

 一方で、早期肥育で経営的にもやっていけるような、大体、この2つの並立路線でやっている農家が多いのだが、九州産をベースにした500日、600日の肥育期間のノーマルな松阪牛では、海外輸出だとか輸出戦略とか、対外的なブランディングの中で生かしていくものとして作っていく方針だ。

 もともとの900日肥育という伝統は、なるべく推進して、明確に伝統を守っていくとともに、もう片方では松阪牛ブランドを海外戦略や他の地域への戦略として二本立てとして考えないといけないと思っている。

──最後に、個人的な話で恐縮だが、高校時代に自殺をしようと思ったのはどういった背景があったのか。

 一言では言えない。生きている価値とか、生きている喜びというのを、当時、感じられなかった。30超えるまで言葉で言えなかったけど、生きていくことそのものの価値が分からなかった。

 死んだ気になって、命かけるものを探し始めた。そこで私の原点を発見した。小学生時代にアフリカの難民に対し関心を持ったことがある。それで地球の裏側の問題に関わろうと思った。大きな人生の目標を作っておけば、そこに向かって走ってる限りは死ななくていいし、その過程で命かけて死んでいったらそれでいいと思った。それまでがんばろうと、そういう気持ちになった。

 そこで初めて生きようと思い、そして努力しようとなった。

 それまで努力も余りしたことがなかった。高校までそうだった。その中で生きる価値観がないと、おこがましくも思っていた。自殺は、既遂だった。既遂で生き残った。それだったら、やれるところまで命かけて、命削ってやってみようかというのが、15から25までの10年間は本当にそういう人生だった。人に対する関わり方というのが見えてきた部分がある。

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