トップページ >

日本をダメにするクールビズ 日本経営者同友会会長 下地常雄

失われる「やせ我慢の美学」

 クールビズの季節を迎えた。暑くて蒸す日本の夏に、西洋の背広にネクタイは合わないというのは分かりやすいが、「ちょっと待て」と私は言いたい。

 クールビズというけれど、いかに自分が涼しくなるかという点ばかりが強調されているような気がしてならないからだ。本来、周囲が私を見て涼しげに見えるかどうかが重要だ。さらに、相手がどう感じるか考える必要もある。

 今ではノーネクタイでシャツ一枚どころか、Tシャツに半パンOKというところまで出てきた。このままだと、いずれサンダル出勤可というところまで出現しそうだ。

 こうした傾向を助長したのは、ジーパン出勤でもとがめられることがない米西海岸で発達したIT企業風土が大きく影響したように思う。

自民党だけでなく日本を壊す

 だが社会人である以上、相手に不快感を与えるような服装で表を歩かないというのは常識だろう。ハンバーガーを食べようと、日本人としての矜持を忘れて欲しくない。

 とりわけ「男が一歩外に出れば、7人の敵がいる」とされる時代があったが、今でも社会が公的な場であることに変わりはない。

 そうであるならば、戦場で着る鎧とまではいかなくても、それなりの身だしなみを整えるのは当たり前のことだ。

 それが家の延長線上か海水浴にでも行くような、お気軽な服装というのはいかがなものか。

 クールビズは「自民党をぶっ壊す!」と叫んだ小泉首相時代に、内閣主導で始まったものだ。だが、このままでは「日本」そのものが壊れてしまいかねない。そもそも、楽をしてかっこよくなる人はいない。

 多くの人が放縦に流される中でも、自らに厳しい規律を持ち続ける人こそ、輝く人だ。

 男はやせ我慢の美学が必要だ。

 本当は蒸し暑くて、とても快適な環境とは程遠いのに、苦しい顔ひとつ見せずに、涼しげな顔をするのが日本の美学の一つだろう。「武士は食わねど、高楊枝」と同じ、やせ我慢の美学だ。

 そんな無理をしなくて自然体でいい、という人がいるかもしれない。だが、水が高きから低きに流れるように、放っておけば人というのは安易な方に流れるものだ。

 そうした流れに掉さして、敢えて困難な戒律を自らに課せる人は輝く人だ。

放縦と自由を勘違いするな

 こうしたことは犯罪にも反映してくる。ちょっと暑いと我慢できない、蒸してきても我慢できない人というのは、当然、犯罪へと走るリスクも高くなる。

 制服の効用も示唆に富んでいる。

 制服というのは学校や組織の一体感を作り出すことで、創造の新たなエネルギーをも生み出している。また、伝統ある制服に恥ずかしくない行動をとらせもする。

 ゴルフをするには襟付きの服といった紳士のスポーツとしての規定があり、西洋の競馬場にはサンダルではだめで、靴を履くという伝統がある。

 ヨーロッパの3つ星レストランや5つ星ホテル内のレストランにはドレスコードがある。いくら金があっても、こうしたマナーを守らない人は未開の野蛮人と同じで、店から排除される。

 高級レストランなどでノーネクタイやスニーカーなどを禁止するドレスコードとは、時間帯や場所に合った服装をする服装規定のことで、周囲への配慮から始まったエチケットだ。

 格式ばったという批判があるかもしれないが、自由というのはそもそもそうした格式や規範の中にこそあるものなのだ。

 人間が一気圧の大気と酸素があって自由に生きられるように、真理を含んだ物事の規定の中にこそ自由を満喫できる。放縦を自由と勘違いしてはならない。

 近代の哲学の一つが合理主義だ。

 その合理主義からすればクールビズは納得しやすいものだ。しかし、そうした皆が納得しやすいものの中にこそ、民族や伝統を壊しかねない匕首が潜んでいることを忘れてはならない。

この記事のトップへ戻る