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水至って清ければ則魚なし

日本経営者同友会会長 下地常雄

 「中継で見れる国会動物園」という川柳が新聞で掲載されたことがある。

 なるほど、今の国会は、噛みつきガメやボス猿を追い落とすため汲々としている猿山騒動のようでもあり、さながら永田町は動物園と化している現実がある。

 ちなみにタイのプミポン国王は、その昔、国会議事堂を新設する場所をどこにするか意向を聞かれた時「動物園の隣あたりがよろしかろう」と答えたとされる逸話が残っている。政治家はギャーギャー騒ぎ立てるだけの動物のようなものだから、という新聞に掲載された川柳と同じ皮肉を込めたものとされる。

 事実、バンコクの国会議事堂は王室所有のドゥシット動物園の隣に作られた。

 その意味では、永田町も動物園とさして変わらない様相を呈している。


政治の機能不全

 安倍晋三首相と民主党の岡田克也代表がそれぞれ代表を務める政党支部が、国からの補助金交付の決まった企業やその関連会社から献金を受け取っていたことが3月初旬、分かった。閣僚や他の政治家の献金問題も侃侃諤々(かんかんがくがく)の状況だ。ジャーナリズムは政治家のあらさがしばかりが目立つ。政治家同士も、相手の非を告発するが、ちょっと待てと言いたい。

 誰しも完璧な人はいない。身体検査してまっ白の人がいるのか問えば、みんなかなり怪しいものだ。要は線引きをどこに引くかだ。誰しもが引っかかるような所で線を引くと、政治は足踏みを繰り返すのみで永田町は無限地獄へと追い込まれる。

 法治国家だからといって、一円の領収書まで求めるようなことがあってはならない。出来もしないことを要求すれば、社会は自縄自縛の罠にはまってしまう。

 「水清ければ魚住まず」とも言う。あまりに厳格な懲罰主義では、政治の活力が失われるばかりか、機能不全を起こしてしまう。政治家として活動していくためには金は必要な資源だ。今の時代、井戸塀政治家を望むことは現実的ではない。

「政治の自殺」避けよ

 政治家に問われる資質とは、未来を遠望し大きな絵柄を描くことが出来る構想力と国家百年の大計を据えることのできる腹だろう。それがなければ、新しい時代の扉を開くことは難しい。

 そうしたステーツマンこそを輩出するような永田町の政治風土を築かなければ、日本に未来はない。

 政争の石礫を投げ合う中で行き着く先は、政治の自殺だ。永田町を墓場にして何の意味があるのか。

 何より中国問題は、我が国が向き合わなければならない緊喫の政治課題だ。へたをすれば中国のアジア覇権確立を許してしまいかねない状況だからだ。経済再建こそが政治の第一課題だという有権者は多いが、安全保障問題は経済に優る優先事項だ。こうした安保問題を実務的に処理できる大局観を持った政治家の見識が問われる時代になっている。

 そうした外交、安保問題で口を閉ざし、些末な問題に吼える「コップの中の嵐」に生きて何の政治家かと問いたい。

 冷戦終結をもたらしたのは毅然とソ連と対決したレーガン米大統領だった。

 現在、求められているのは「日本のレーガン」の出現だ。力によるアジア覇権を虎視眈々と狙っている中国に対し、その野望を打ち砕くリーダーが望まれている。

王道か覇道か

 ナチスの意図を見抜けず融和路線を選択したチェンバレン英首相の失敗の轍を踏むようでは、アジアにかかっている暗雲を払拭することは不可能だ。

 もちろん、中国はナチス・ドイツではないし、冷戦時代のソ連でもない。だが、我が国は中国が仕掛けてきた挑戦に敢然と立ち向かっていかないといけない。

 今こそ、政治のダイナミズムが問われている時代はないのに、敢えて重箱の隅をつついて政治の矮小化を図っている与野党の猛省も促したい。

 かつて孫文は我が国の行く道は「王道か覇道か」と問うたことがある。まさしくそれは、今の政治家にも当てはまる問いかけだ。政争に明け暮れる覇道の政治屋であり続けるのか、冷酷な国際情勢を見据えた上で国家の行くべき道に粛々と歩みを進めるステーツマンになるのか、問われているのは政治倫理ではなく政治哲学のありようだ。

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