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戦後アジアの4指導者

 戦後アジアの指導者で筆者が最も尊敬する大政治家は、インドのインディラ・ガンディー元首相、アタル・ビハーリ・バージペイ元首相、シンガポールのリー・クアンユー元首相、それに最近93歳でマレーシアの首相の座に帰り咲いたマハティール・モハマドの4人である。
 政治的経歴からすれば、この4人を尊敬することは矛盾するように思う人がいても不思議ではない。なぜならば、インディラ・ガンディー女史とアタル・バージペイ氏は政敵であり、相手を監獄に送った経緯もある。
 またマハティール氏は青年政治家としてシンガポールの分離独立に強く反対し、その後もリー・クアンユー氏の良きライバルでもあった。だが、共通の面も多々ある。彼らは誇り高い民族主義者でありながら現実的な国際主義者の面も持ち、熱烈な愛国主義者でありながら理性的な世俗主義でもあった。
 さらに卓越した指導力と先見性、そして不動の精神で有言実行ぶりを発揮してもいる。
 指導者としてマスメディアとか外国勢力によってリモコン式に誘導されることもなく、雄弁に大衆に語りかけ、良薬口に苦しで大衆に不人気なことも真摯に貫いた。大衆の心を掴む弁舌では、インディラ・ガンディー氏とリー・クアンユー氏が巧みだったのに比べて、小声ながら理論的に答弁する説得術はバージペイとマハティールの方が上手だったように思う。
 筆者はこの4人の偉人達にお世話になり、その神々しいオーラのような存在に触れる機会に恵まれた。
 バージペイ氏とマハティール氏は共に10代で英国の植民支配に反対する政治活動に参加し、逮捕されたこともある。ご両人のご尊父が厳格な教育者の小学校の教諭で、磐石な信仰心の裏付けと高度な倫理観と正義感を身に付けたのもそのためだろう。
 また、アメリカや中国など大国や潜在的大国に対し、理路整然と建設的な批判を行なった点も似ている。
 ただ、中国が国際法を順守するだろうと信じて、自国の外交的努力を惜しまない点は筆者から見ると、玉の傷だ。
 直接、中国の侵略を経験してないマハティール首相の気持ちが分からなくもないが、バージペイ元首相は中国から信義を裏切られ、侵略を受けても外務大臣として、首相として印中関係改善に務め続けた虚しい教訓がある。バージペイ元首相は16歳で 民族義勇団「Rashtriya Swamsevak Sangh (RSS)」に入会し、そこから首相に登りつめた。マハティール氏も学生時代、自ら「ムスレム協会」を設立して民族啓蒙活動に励み、植民地支配批判を新聞のコラムニストとして健筆をふるっている。偶然にもバージペイもジャーナリストとして同じような主張を展開していた。そして共に親日派でもある。両氏の日本に対する期待とある種の憧れが共通している。
 インデラ・ガンディ氏とリー・クアンユー氏に関しては、その都度、別紙で追悼文を記した。
 マハティール氏は93歳で政界のトップに復帰し、正義と国民の幸福のため奮闘している。大いに期待し、成功を祈りたい。
 他方、バージペイ元首相は93歳で8月16日に他界した。バージペイ元首相の偉業を紹介し、特に日本との関わりについて簡単に回想を纏め、ご冥福をお祈りしたい。
 1970年代から80年代に、私的にもまた首相官邸でもお目にかかることができた。特に野党のリーダー時代、共通の友人の著名な学者で親日家のM・L・ ソンディ教授宅で長時間日本について、熱心に質問攻めにあった記憶は今でも脳裏に蘇ってくる。
 ソンディ教授の他、同席したのはやはり10代で反英植民地運動に参加し投獄を経験した、L・K・アドバニー元副首相であった。
 バージペイ元首相は、ダイナミックな行動力とは裏腹に、物静かな口調でいろいろ質問してくださった。
 多くの質問は、日本人のインド人観や本来であればもっと緊密であるべき日印関係の更なる親交のために何が不足かなどだった。実際、バージペイ元首相は、2000年の森首相のインド訪問の際、本来なら「日本とインドは自然のパートナー 」であるべきだと語り、「 日印グローバル・パートナーシップ」構築に合意し、翌年、バージペイ元首相の日本訪問で「日印グローバル・パートナーシップ」の東京宣言を行った経緯がある。
 さらに小泉首相とバージペイ元首相によって「日印戦略的グローバル・パートナーシップ」へと進む。
 現在、安倍首相とモディ首相によって「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」へと深化し、戦後最高の2カ国関係に発展している。
 日本とインドは戦後、常に良い関係を保って来ており、政党や指導者によって多少温度差があっても、良好な関係は維持してきた。
 1998年、インドの核実験に対する過剰な反応に対し、バージペイ元首相の「 世界唯一の被爆国としての立場を理解する」と謙虚に受け止め、日本との関係悪化を食い止めた。
 当時のインド国防大臣のジョージ・フェルナンデス氏と親友の野呂田芳成前防衛長官や平林大使など、両国の優れた外務官僚の努力によって、結果的には両国関係はむしろ躍進したのを目の当たりして来た。国の関係も、結局は人間関係と信頼関係によって左右することをこの時期に学んだ。
 バージペイ元首相は隣国パキスタンとの関係改善にも懸命に努力した。
 1999年、政治生命をかけて自らパキスタンのナワーズ・シャリフ元首相と首脳会談を行うため同国を訪問。関係改善に向けラホール宣言発表という前進的な結果を得たが、結局、パキスタン軍によってカルギル紛争を起こし逆戻りした。
 軍事クーデターによって、国民の選挙で選ばれたシャリフ元首相は失脚。代わって政権のトップについた元将軍パルヴェーズ・ムシャラフ大統領とも首脳会談を行い、両国間の問題解決のため「複合的対話」を行なうことになり、2005年4月にムシャラフ元大統領がインドのニューデリーの生家を訪問、世界の注目の下、両首脳は世界七不思議の一つタージマハールがそびえ立つアグラで協議に入った。当初、楽観的されていたものの、最後に国内事情でムシャラフ元大統領の腰が引けた。
 バージペイ氏は 1957年から2009年まで上院2期、下院10期の計12期の議員生活を送った。その間、最も活発なチベット支持者として活躍し、若い時は与党のチベット政策を雄弁に批判したが、2003年は訪中し「チベットが中国の一部である」事を認める代わりに「シッキム」がインド領である妥協を得ている。
 筆者としては悲しいが、一政治家としてのバージペイ元首相の一貫した自国の国益を追求する現実的姿勢と決断力は評価できた。
 バージペイ氏は生涯独身を貫き、詩人として、文芸人の顔も持っていた。
 この度、日本は大切な友人を失い、インドは献身的な息子を失った。世界はヒンドゥー至上主義と民族右派のレッテルを貼りながらも、今は真の平和構築者を失った実感を持ち始めている。葬儀にはブータン国王始め、パキスタンの法務大臣兼情報大臣等多数の要人が駆けつけたのはその証ではないだろうか。20世紀の代表的なステーツマンの死を偲びご冥福を祈りたい。

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