書 評
「シリアの秘密図書館」 宮崎正勝著
デルフィーヌ・ミヌーイ著
本書はシリアの首都ダマスカスの近郊の町ダラヤで作られた図書館をテーマにしている。
ダラヤでは、市民がアサド政権軍に抵抗し籠城していた。シリア政府は、彼らを狂信者、テロリストとして町全体を攻撃対象にし、4年間、6000発の樽爆弾を投下している。
その中で、崩れる落ちた家の本を掘り出すグループがいた。最初は1人から始まり、友人たちがそれを手助けした。
当初、誰もが「本?」と驚いたという。戦争の最中なのに、とっぴだったからだ。命を救えずにいるのに、本を救って何になるのか。
しかも多くの市民は、読書家でもなかった。独裁政権下にある本というのは、嘘とプロパガンダの味がするものだったからだ。
しかし、本を手にした人々は震えたと著者は書いている。
知の扉を開いた時の、心を乱すざわめきに震えたのだ。そして、読書は彼らの新たな土台となった。
彼等は隠された過去を探るために読む。学ぶため、正気を保つために読む。秘密図書館は、ダラヤの大学でもあり、精神病棟ともなった。
ここで本は、紛争の日常から未知の世界へと逃げ出すはけ口だった。そうした活字への逃避行を著者は否定的に見ない。活字の中の新世界でじっくりものを考えることで、新たに現実に立ち向かう力が付与されるからだという。
本書はルポルタージュだが、著者は現場には行っていない。シリア政府軍から包囲網を敷かれたダラヤには、すべての道はふさがれていた。
そのためスマホやスカイプで連絡を取り、ワッツアップの無料ボイスメッセージで答えを保存したりしている。
著者はフランス生まれの女性ジャーナリストだが、表面的な戦闘状況ではなく魂の次元でシリアと向かい合っているのが本書の特徴だ。
絶望的状況の中で本を救い、本に救われた人々がいた。私達は有り余る著作物や情報の洪水の中にいるが、実は本や情報の本当の価値は知らないのかもしれない。 (東京創元社 本体1600円+税)
「ルーズベルトの開戦責任」 ハミルトン・フィッシュ著
驚くべき開戦の真実
歴史にも真実の光が当てられないといけない。往々にして歴史は勝者の都合に合わせて作られるものだからだ。
本書は大敵であるはずのスターリンに異様なまで寛容だったルーズベルトの罪を暴いたものだ。
ルーズベルト米大統領には「参戦と三選」の2つの野望があった。対独日への参戦と大統領三選だ。
ヒトラーとスターリンは放っておけば、遅かれ早かれ闘うはずだった。両国の戦いは破滅的な激しいものになる。
そうなっていれば、欧米は戦争の恐怖から解放されていたし、東欧や中国が共産主義者の手に渡ることもなかった。
そのためには2人の独裁者が血みどろになって闘うのを傍観していればよかった。
トルーマンの眼力は鋭く、ロシアが追い詰められればロシアを支援し、ドイツが劣勢になればドイツを助ければいいとまで言っていた。
だが、ルーズベルトは対独戦に執着した。
そのためロシアへの支援は110億ドルにおよんだ。
武器貸与法にもとづいて、スターリンが米国から受け取った航空機は2000機、トラックは40万台にのぼった。
これはドイツが侵攻を始めた時の2倍の数だ。
ほかにも軍靴、有刺鉄線、電信ケーブル、車両、機関車、工作機械なお膨大な支援が米から寄せられた。
ルーズベルト外交は、ポーランドの終焉をもたらした。
議会に黙って日本がとても飲めない「ハルノート」を突きつけるなど、ルーズベルトが用いた策力とだましのテクニックは、レーニンに匹敵する狡猾さだった。
ただ、ルーズベルトが共産主義者だったかというと、著者の答えはNOだ。
しかし、容共的だったことは間違いがない。民主党リベラル左派で、社会主義思想を受け入れていた。
通常、社会主義者は共産主義の全体主義と警察国家を嫌うものだが、ソ連に傾斜していた夫人からの影響もあって目をつぶっていた。
結局、ヤルタ会談で勝者はスターリンだった
第二次世界大戦で英米は70万人の兵士を失った。だがヤルタでは1億人の自由な民を共産主義、全体主義の犠牲者に追いやった。ポーランド、ハンガリー、チェコなど自由な民が共産主義国家の支配に入った。(草思社文庫 1000円+税)
「ドラッカー入門」 上田惇生/井坂康志翻訳
人間性を担保しない資本主義
デカルト的モダンは、因果関係と定量化こそが意味あるものだとした。科学とは因果知識であり、意味あるものは量だというのだ。全体は部分の和であり、部分によって規定されるとも。
西洋近代化の哲学となったデカルト的モダンは、350年間、西洋を風靡し世界を支配した。科学技術の進歩をもたらし、果ては経済社会の発展をもたらした。
しかし、全体は部分の和では決してない。存在するものは相互に関係しあっているし、そもそも因果律で理解できる代物でもなく、もつれあった形態というのが正しい認識だ。生命体も、脳が組織に命令するのではなく、相互に様々なメッセージを発信し合っている。
環境問題にしろ途上国問題、教育問題など21世紀の重要課題は、すべてあたかも命あるもののごとく、全体を全体として捉える知覚的な能力によってのみ理解が可能となり、解決が可能となるというのがドラッカーの持論だ。
知覚的能力というのは、あらゆるものを機械としてではなく、命あるものものとしてみるということだ。命あるものとして捉える能力こそが、企業や組織に命の息を吹き込む。いかに生きるべきか考えるだけでなく、生きるための生きた知識が不可欠だ。博識の野蛮人というのは社会の鼻つまみものだが、無知の紳士というのも困りものだ。
資本主義は人間性を担保していない。にもかかわらず人間性を前提としている。人間性なき資本主義は正統性を担保していない。ドラッカーは、資本主義は自ら苦労して正統性を確保しないといけないと説く。
本書は30年以上に渡ってドラッカーの本の翻訳を担当してきた上田氏らによるドラッカー哲学の神髄を書き下ろしている。(ダイヤモンド社 本体1800円+税)
『ルポ 中国「潜入バイト」日記』 西谷格著
中国人が一番信用しないのは中国人
異形国家・中国の現実を生で知りたいと思った著者が大陸に住み着き、6年に渡って「潜入アルバイト」を敢行した記録が本書だ。
著者はライターの身分を隠し、上海の寿司屋から始まり、パクリ遊園地やホストクラブ、反日ドラマ制作現場では日本人兵役までこなしている。
上海の寿司屋では、中国人板前が握るネタの鮮度の低さに著者は驚くが、日本人と中国人の舌感覚の違いを知って納得する。
寿司ネタの鮮度を気にしないのは、客から入るオーダーのほとんどが、マヨネーズ焼きの状態で出されるから。握っているマグロやサーモンの色は濁ってはいるが、その上にコショウやガーリックパウダーを振りかけ、大阪のお好み焼きのようにマヨネーズを寿司ネタ一面に振りかける。さらにガスバーナーで表面をあぶるので、鮮度の悪さに誰も気づくことはない。
口にすると素材の味はほとんど分からず、いわばコンビニのシーチキンにおにぎりの味に近いという。
生ものを食べ慣れない中国人にとっては、普通の寿司よりマヨネーズ焼きの方が食べやすいのだ。そもそも「中華料理は足し算の料理」だ。日本の懐石料理のような、素材そのもので勝負する料理とは違う。
興味深かったのは「中国人はニュースに関心がない」ということだった。調理スタッフにマクドナルドで使われた腐敗肉問題を聞いても、誰しも「ああ聞いたことがあるよ」程度のリアクションでしかないのだ。
広大な国土、多い人口、一党独裁、言論の自由や参政権の欠如などに起因した意見を言うだけ無駄といった諦観に支配され、他人のことより自分のことを考える風潮が蔓延しているというのだ。
なるほど、「中国人が一番信用しないのは中国人」ということが納得できる。
(小学館新書 本体800円+税)
「立ち上がれ 日大マン!」 白倉康夫著
アメフト違法タックル問題で組織悪暴く
アメフトの危険タックル問題では、各紙とも社説やコラムなどで論じた。
「私からの指示ではない」と責任逃れした、日大アメフト前監督の内田氏の非を諌めるオピニオンが目立った。
中には先の大戦での責任のとり方と比較し、ラバウルで敗戦を迎え、戦犯となった今村陸軍大将と部下の参謀長の口論を紹介するメディアもあった。
「責任は当然私が負うべきだ」「いや、命令した私の責任だ」。
まもなく始まる裁判で、お互いが相手の罪を少しでも軽くしようとしていた。参謀長は無罪放免となり、今村はその後9年間、獄に服す。
日本に送還された後も、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官に、赤道直下の炎暑の島の刑務所に戻りたいと申し出る。部下とともに服役したかったのだ。マッカーサーはこの時、「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いがした」と述べ、これを許している。
人生では最も生きるか死ぬかといった時にこそ、その人の地金が出るものだ。
昔は、敵将さえも感動させるような人物がいた。
それに比べると、後ろから切り付けるような今回の事件は、事件そのものも責任の取り方もいただけない。
本書でも、結局、解任されたとはいえ内田元監督はまだ命令したことを認めていないし、大学側も学生の言葉より、内田元監督の話を信じ、不満を述べていながら、大塚学長からの直接の謝罪もなかったことに批判のつぶてを投げる。
著者は日本大学アメフト部の篠竹幹夫監督(故人)の秘書を10年間務めた白倉氏で、内部事情に精通しているからこそ、内部に巣くう組織悪を暴く本書を書けた。
そこには日大を愛するがゆえに、ただ利用して巨大組織に君臨する者を許せない心情がほとばしり出ている。(人間の科学新社 本体1200円+税)