トップページ >

辺野古問題に忸怩たる思い

日本経営者同友会会長 下地常雄

私の故郷、〝OKINAWA〟が揺れている。
 辺野古における米軍基地建設は、日米関係に深く刺さり込むような大きな問題となっている。沖縄の歴史は絶えず揺れているが、今の揺れは近来稀に見るほどの大きさである。
 私は沖縄県出身者として、〝OKINAWA〟にとって役に立つことならば、何でもすると心に誓ってきたし、この信念に基づいて行動してきた。

翁長訪米に私の疑問符

 2015年春、故・翁長雄志前沖縄県知事は、アメリカに渡っている。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設計画(当時)阻止を米政府に直談判するためだった。
 その成果について正直に述べると、あの時のことを冷静に見つめられるようになった今でもやっぱり、〝?〟を呈さざるを得ない。
 どうしてあの翁長訪米について、私は疑問符をつけているのか。その答えは、ひとえに、アメリカが突きつけた厳しい主張との乖離、もっと平たく言えば、すれ違いにあった。
 アメリカ側は、「辺野古移転が唯一の解決策だ」と、明確かつ具体的に持論を打ち出してきた。しかしながら、翁長知事はこれにただただ「反対」というだけで、どうして「反対」なのかという、一番肝心な部分を端折ってしまい、相手の主張を粉砕するような論拠を明示しなかった。
 アメリカサイドが、こうした対応に、〝すれ違い〟を感じ、違和感を持ったことは言うまでもないであろう。
 私は辺野古の問題は、やはり議論を尽くさなければならないとかねてより考えていたので、翁長知事のアメリカ訪問に際し、安慶田光男副知事から米要人との会合のセッティングを依頼されたこともあり、ワシントンDCに一足先に飛び、準備をして待っていた。
 故郷のためならば、そんなことは誰に言われるまでもなく、行動に移す。私の信条といってもいい。

仲井真・キャンベル会談

 翁長知事の前任者、仲井真弘多氏の2 012年の訪米時には、キャンベル国務次官補(当時)との会談に尽力した。この両者の会談は、円滑に進行し、無論、のこと目立った軋轢など生じようもなかった。
 この時に続き、私は、翁長知事をワシントン・ポストの最高経営責任者(CEO)であるフレデリック・ライアン氏と引き合わせた。ライアン氏は私の旧友でもあり、故レーガン元大統領の首席補佐官を務めていたこともあり、いわばジャーナリストでかつ政治に精通している人物でもある。
 ライアン氏ならば多角的な見方が出来る人だということを私自身、よく知っていた。
 そこで混線してしまった問題解決の信頼すべきアドバイザーになってくれると確信していて、こじれている辺野古の問題を解きほぐす良きアドバイスを与えてくれるのではと考えていた。
 ともあれ、翁長・ライアン会談が、辺野古問題に良い意味での刺激になるであろうことを信じて疑わなかったのだ。
 ところが、この会談は翁長知事にとって、ひいては沖縄県にとっても喜ばしい結果を生み出すには至らなかった。
 それはある意味、当然のことだったのかもしれない。何故か。
 ライアン氏はお礼のレターを、翁長知事に対し、会談の直後に送っている。しかしながら、残念なことに翁長知事はそれに対して簡単な返信すら出さなかったのだ。

翁長知事に提案

 さらに、これが日米両国間の〝すれ違い〟の直接的要因になるのだが、私からのサジェストを結果的に反故にしてしまったのである。私は、ライアン氏との会談の熱もさめやらぬ時に、翁長知事にこんな提案をした。
 「東京に来られた時、自民党の幹部と会食でもなさったら、いかがですか?」
 私のアドバイスは、時勢を考慮した上でのものだった。日本においては、こう着状態に陥っている辺野古問題を前進させるためには、何はさておき、知事自ら永田町に出向いていって、多方面とのネゴシエイトに汗を流さなければ始まらない。政治的な姿勢であるとか、考え方云々より前に、これは我が国の〝政治〟の第一歩なのである。押しても駄目なら、引いてみなではないが、この駆け引きが出来なければ、やはりことは成就しない。
 翁長知事は私のこのアドバイスを快諾した。それを素直に実行してくれさえすれば、私はこの翁長知事のワシントン訪問も、その後の辺野古問題の展開もずいぶん変わっただろうにと思うのだ。
 ワシントンから帰国した後、私は早速、永田町の与党に根回しを始めた。ことは
〝OKINAWA〟が直面している重大事である。私は躍起になった。
 ところが、である。
 その電話でこんな答えが返ってきた。
 「(翁長)知事は、自民党議員とは会いません」
 耳を疑う、というのはこのことであった。
 私は最初、何を言われているのか分からなかった。〝ワシントンでは知事は、あんなにハッキリと私のアドバイスを受け入れてくれたはずだが〟。あの時、快諾した知事のにこやかな顔も記憶に新しいところだ。
 それきり、翁長知事から私のアドバイスに対する意見や考え方、その後、一切の行動もなかった。 
 ないのは、そればかりではない。ワシントン・ポストのライアン氏との面談をセッティングした上、知事の補佐役になって走り回ったことへの謝意もついぞ、ない。

歴史にIFはないが

 私は謝意を伝えて欲しくて行動しているわけでは全くない。すべては、〝OKINAWA〟のためにしていることである。
 しかしながら、知事として、上に立つ者として、〝OKINAWA〟のために心を砕き動いてくれた人間に対する謝意を表すという、基本的なことができないというのは残念である。
 私は、あれから四年が経過した今、辺野古の問題がさらなる高まりを見せていることに忸怩たる思いしかない。あの時の知事の対応が現在、どのような影響を醸し出しているかを考えたとき無念を禁じ得ないのだ。
 歴史に、IF(もしも)はないとされる。確かにその通りだろう。たがもし、あの時、翁長知事が行動を起こさなかったことの一つでも実行していてくれたらと、毎日のように報道される、辺野古の現状を見ながら忸怩たる思いにかられる。 

この記事のトップへ戻る