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回顧録20

マイケル・ジャクソン氏を偲ぶ

日本経営者同友会会長 下地常雄

 「ポップの帝王」マイケル・ジャクソン氏が亡くなったのは、2009年6月25日のことだった。今年が死去後10年目の節目にあたることから、彼を偲び回顧録に登場願うことにした。
 マイケル氏と私の出会いは、世紀をまたいだものであった。
 隣国韓国でのマイケル氏の公演に招待され、マイケル氏が泊まった新羅ホテルのスイートルームの隣りに部屋をとったのは1999年のことだった。

ホテル前のあらぬ災難

 その後21世紀に入って、私はロサンゼルスにある自宅兼遊園地のネバーランドに招待された。
 その折に私がロスのホテルの前で、マイケル氏のゼネラルマネージャー、ウエン氏を待っていた時に、思わぬ災難に襲われた。
 背広姿の私は、貴重品が入ったかばんを持って立っていた。すると突然、肩をぽんぽんと叩かれ、背広の脇にケチャップがかかっていると見知らぬ男に指摘された。あわてて、かばんを通路に置き、ケチャップで汚れた背広を脱ぎにかかった。脱ぎ終わって、ふと通路を見るとかばんがない。かばんには5000ドルのキャッシュとロレックスの時計、それにエメラルドのカフスボタンが入っていた。エメラルドは私の誕生石だった。
 パスポートだけは、この日、背広の内ポケットに入れておいたこともあって盗難を免れた。不幸中の幸いだった。
 イザヤ・ベンダサン氏は「日本人は安全と水はタダと思っている」と述べているが、日常、スリや強盗に出会うことのない日本は、やはり特別な国だと思う。
 くれぐれも、海外ではこうした旅に待ち受ける落とし穴には気をつけないといけない。

映画「寅さん」シリーズも

 訪ねたネバーランドには、観覧車もあれば劇場も存在した。象やキリンといった動物たちを備えたミニ動物園もあった。
 かわいいミニ電車も存在し、マイケル氏と一緒に乗り込んで事務所までの小さな旅を楽しんだ。
 事務所の中はというと、一言で言うと、まるで「日本のTSUTAYA」だった。それこそ何千本ものビデオがずらりと壁一面に並んでいた。当時はディスクもCDもない時代だった。その中には山田洋二監督の「寅さん」シリーズもあった。マイケル氏がどういった気持ちで「寅さん」映画を見ていたのか、興味が俄然湧いてきた。伸びやかな音楽がよかったのか、それともただ日本的情緒に浸っていたのか気になるところだ。
 宿泊したのは居間とベッドルームがある小さなスイートルームといった感じの部屋だった。案内してくれた執事のウエン氏は「この部屋はエリザベス・テーラーが泊まったんだよ」と明かしてくれた。
 ゼネラルマネージャーのウエン氏から「ここで見聞きした事は他言無用です。写真も撮らないで」と念を押され、サインもしないといけないということだったが、マイケル氏はあなたは特別だ必要ないと私にそれをさせなかった。

ホームツアー

 マイケル氏の住居は、二階建ての木造だった。豪邸というわけではなく、質素な感じさえした。
 マイケル氏は自分で部屋を案内してくれた。いわゆるホームツアーだ。ガイド役を務めてくれたマイケル氏は、全ての部屋を見せてくれた。
 最初は子供部屋だったが、一歳の赤ん坊が大きなダブルベッドの上でうつむいて寝ていたのを覚えている。最初、赤ん坊とは気がつかず、なんとも大きな人形を置いているのだろうといぶかったものだ。子供は2人いて、長男は当時、6歳だった。壁紙はメルヘンチックな城をデザインしたディズニーのもので、明るい部屋だった。
 一方、マスタールームとなるマイケル氏の部屋の壁紙は、地味すぎると思うほど落ち着いた雰囲気のものであった。公演や映画を見ていると、派手でピカピカのイメージだが、実際はしっとりとして落ち着きのある部屋が好きだったらしい。
 マイケル氏は最初、プレスリー氏の娘と結婚したが、その後離婚して新しい婦人と結婚している。

大蛇を首に

 さらに4匹の大蛇を飼っている部屋に、マイケル氏は案内してくれた。
 マイケル氏は特に黄色の大蛇が気に入っていた。それを飼育担当者に持ってこさせると、ゲストの私の首に巻き付けて本人も結構、楽しんでいた。
 蛇嫌いの私には少々、酷だった。有難迷惑もいいところだ。何より蛇の冷んやした感触がにがてだ。それに筋肉質の大人の腕ほどもある大蛇の胴体で締め上げられたら一巻の終わりだ。
 私が気に入ったのは、ベイビータイガーだった。赤ちゃんといっても、前足は結構大きく、将来の頼もしい百獣の王を彷彿させる。そのベイビータイガーを抱かせてもらった。
 ネバーランドには、映画館も存在する。しかも客は私しかいないのに、ポップコーン売りとかチョコレート売り場のスタッフも、気を抜くことなく役になりきっているところが、素晴らしかった。ディズニーランドでは屋台売り場のスタッフや掃除係だろうが全員、キャスト意識を持ってゲストに接することになっている。
 いわばディズニーという巨大劇場の中で、一人一人が全員エンターテイナーとしてのキャスト意識を持っているのだが、ネバーランドのポップコーン売りにもそれを感じた次第だ。
 映画館では名画「スリラー」をやっていて、その出だしを拝見させてもらった。

小鳥のさえずりのような小声

 夜のディナーは、メキシコ系シェフが作ったステーキで結構いけた。
 マイケル氏は「ステーキの味はどう」などと聞いてきた。その時、マイケル氏の指の爪の甘皮の部分を見て、驚いた。マイケルは黒人のはずだが、皮膚は全身白かった。だが指の爪の甘皮の部分は、黒かったのがとても印象に残った。
 またマイケル氏の声は小さく、ささやくような声は、愛しさが染み渡るようだった。
 私の故郷の宮古島は大体、みんな大声で話す。海の男たちの声は、基本的に大きい。板子一枚下は地獄とされる海での仕事で、意思疎通が不明瞭であっては命に関わってくる。だから知らぬ人が聞けば、喧嘩しているのかと間違えるほどの声量で話したりもする。
 それがマイケル氏ときたら、小鳥のさえずりのような話ぶりだ。きっと、繊細な琴線を持った芸術家ゆえのことなのだろう。
 なお翌日の朝も、料理はステーキだった。
 アメリカ人は登山を愛好する山男のように毎日同じものを食べても、あきないのだろうかと不思議に思った。
 ネバーランドでは馬車が停車していて、タキシードを着込んだ御者がじっと待っている。じつはマイケル氏の子供たちが来るのを、待っていたのだ。ネバーランドでは、御伽噺のような世界がそのまま残っていた。彼の真実を見て感じることができたあの日のことは私にとって、一生の大切な思い出となっている。


【プロフィール】

しもじ みきお

 沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。1944年沖縄宮古島生まれ。77年に日本経営者同友会設立。93年ASEAN協会代表理事に就任。レーガン大統領からオバマ大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い沖縄出身の国際人。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また、2009年モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。

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