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相沢英之元金融担当相が死去、99歳 生涯忘れなかったソ連抑留者の同胞

 経済企画庁長官や自民党税調会長を歴任した相沢英之元金融担当相が4月4日、肺炎のため亡くなった。享年99才の大往生だった。100歳まで、司葉子夫人と一緒に「笑顔で生きる〝夫婦長寿の101の知恵〟」を明かした〝夫婦対談本〟を出したばかりだった。
 本誌も昨年、98歳の現役弁護士として都内に事務所を持つ相沢英之氏を訪ねたことがある。農業や弁護士には定年がなく、ぼけないで体さえしっかりしていれば生涯働ける職業だ。弁護士事務所で相沢氏は、ロシア問題を熱をこめて語ったことが印象的だった。
 相沢氏は戦中、北朝鮮の咸鏡南道咸興駐在軍司令部の主計将校をしていたが、昭和20年8月15日の終戦後、在留邦人の帰還を見とどけるまで鉄道沿線の警備に当たった。全員の引き上げ後に将兵を内地に送還するという協定になっていたというが10月、興南の港で乗船させられてソ連のポシェット軍港に上陸したあと23日もの間、シベリア鉄道を西にひた走り、ボルガ河支流のカマ川沿岸の小都市エラブガで約3年の抑留生活を余儀なくされている。
 飢えと寒さに悩まされた3年間の強制労働を終え、23年8月14日に舞鶴に上陸して日本の土を踏んだ。その後、仲間から推されて抑留者団体全国ソ連強制抑留者団体の長となった。以後、生涯かけてロシアと対峙していくことになる。
 ロシアは、終戦間際に日本の敗色を見越して日ソ間に結ばれていた不可侵条約を一方的に破棄したことを謝罪し、60万抑留者の強制労働に対する賃金を支払うことを要求して運動を開始した。以来、平成3年、ゴルバチョフ来日の際に日ソ間に締結された3カ条の協定(抑留者の名簿報告など)の履行を要求し、モスクワを訪ねることも20数回を重ねるが、結局、協定の完全履行は実現しないままだ。相沢氏はソ連強制抑留者の多くが死去した後も、生涯かけて抑留問題のけりをつけることに心を砕き続けた。

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