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回顧録21

石原慎太郎ASEAN協会会長就任の真相

日本経営者同友会会長 下地常雄

稲嶺先生から託されたASEAN協会

 私がASEAN(東南アジア諸国連合)に傾倒していったのは、稲嶺一郎先生を介してのことだった。
 稲嶺一郎先生は沖縄を代表する代議士だった。稲嶺先生は琉球石油のトップとして辣腕を発揮していたが、国家を背負っている国士でもあった。
 今永田町では、親や祖父の地盤、看板を受け継いだ二世議員、三世議員が群れをなしているが、稲嶺先生は嵐の巖頭に一人立つような風格と威厳に満ちておられた。
 何より東南アジアこそが、経済的にも地政学的にも日本の生き残りを担保するものになると早くから見抜き、ASEAN協会を作っていた。
 90年代初頭、その稲嶺先生から「引退するからASEAN協会を引き受けてくれ」と頼まれた。
 「日本経営者同友会を作ったばかりで安請け合いして中途半端なことをしては申し訳ない。後でみんなに迷惑をかける。本業をちゃんとするまで待ってくれ」とお願いした。
 その時のASEAN協会は会長が大来佐武郎氏で、稲嶺先生は最高顧問だった。
 稲嶺先生から一年後、しびれを切らしたように、再度、呼ばれた。
 「わしも高齢だから今年には議員バッジをはずそうと思う。頼むよ」と念を押された。
 二回も頼まれて、私も引くに引けなくなった。
 それで「分かりました。微力ながらやります」と受けた。
 これが私が協会の代表理事に就任したいきさつだ。

ASEANへ同行
 そこで、稲嶺先生に一つだけお願いした。
 「ASEAN協会を引き受ける代わりにといってはなんだか、副会長として私と親しくしている石原慎太郎氏を入れてもらえないだろうか。それが条件というわけでは決してないが、入れてもらえるとありがたい」
 そうすると、稲嶺先生は「小渕君はどうなんだ」と聞いてきた。
 実は小渕恵三氏は、稲嶺先生の東京の家に下宿して早稲田大学に通っていた。だから稲嶺先生からすれば、小渕氏は自分の薫陶を受けた弟子にも等しい関係だった。
 小渕氏が首相時代に、沖縄でサミットを開催したのは、亡き稲嶺先生への恩返しの気持ちであったと思う。
 ともあれ、副会長は石原氏になった。
 稲嶺先生とは何度かASEANの盟主ともいうべきタイやインドネシア、さらに当時まだASEAN加盟を果たしていなかったカンボジアなども訪問した。
 タイを訪問したのは1989年5月25日から30日までの6日間だった。ASEAN協会会長代行の大田範雄氏も同行した。当時のポン・サラシン副首相はじめアヌワット・ワッタナポンミリ経済開発大臣やチャムラット・マンクラーラット法務大臣らと会見した。

小さな国の大政治家
 アジアを巡った折に強く心に残ったことがあった。シンガポールと台湾、どちらも小さな国だが、町は活力でみなぎっていた。リー・クワン・ユーに李登輝といった当時の元首が、腹をくくって国造りに取り組んでいた。
 2国の共通点は、存亡の淵に立たされた国家の危機感だ。マレーシアから切り離されたシンガポールは、南部のインドネシアを併わせれば、イスラムの大国に挟まれた小さな華人国家に過ぎなかった。台湾は人口13億人の共産党独裁政権の中国と対峙していた。どちらも極度の政治的緊張を強いられる立場だったが、生き残りを賭けた闘いは政治家を鍛えに鍛えた。リー・クワン・ユーや李登輝こそは、小さな国の大政治家だと私は確信している。大政治家というのは大国にいるとは限らないのだ。
 そういう意味でもASEAN協会というのは、永田町の政治家にも新たな活力を吹き込むパワーセンターになり得た。
 稲嶺先生のASEANとのパイプ役になる要人は、政治家だけでなく財界人、学者など幅広い知己が存在していた。東南アジアでの軍人の地位は高く、タイではチャワン・カイチャイナクール国家安全部隊最高指令副長官などとも会見した。
 稲嶺先生はそうした人脈を私に紹介してくれた。ASEAN協会代表理事として充分な仕事ができるよう後押ししてくれたのだ。
 今にして思えば、自分の寿命を察知した稲嶺先生が、次の時代へバトンをつなぐために生命を削ってでもという思いで、私を同行しての旅に出たのだ。沖縄武士の風格があった稲嶺先生には、そうした使命の前に粛々と身を殉じていく覚悟があった。

一本線香を上げてくれ
 ただ身体には相当、無理を強いたようで、バンコクでは何度も咳き込み、秘書の介抱を必要とした。
 結局、稲嶺先生は帰国後、数カ月も経たないうちにお亡くなりになった。
 その後石原氏から連絡があって、東京でASEAN協会会長就任の発表をしたいと言ってきた。
 それに対して私は、次の提案をした。
 「いや、ちょっと待ってくれ。あなたと稲峰先生とは一回も会ったことがない。それなのに、一方的に発表したら、私は目覚めが悪い。申し訳ないが、これは私の人生観だから、一度沖縄に行って稲峰先生の御前に一本線香を上げてくれ」と言った。
 すると、石原氏は「発表した後、沖縄へ行くというのはどうか」と言ってきた。
 「いや、そうではなく、あくまで稲嶺先生の御前で報告するのが先で、その後、沖縄県庁で発表しても良いじゃないか」と提案すると、石原氏は了解してくれた。
 一カ月ぐらいして石原氏と一緒に沖縄に行き、稲峰先生の自宅を訪ね、線香をあげ、墓参りをした。稲嶺先生の長男の恵一氏にも同行してもらい、その足で沖縄県庁に行き石原慎太郎氏のASEAN協会会長就任の発表をした。


【プロフィール】

しもじ みきお

 沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。1944年沖縄宮古島生まれ。77年に日本経営者同友会設立。93年ASEAN協会代表理事に就任。レーガン大統領からオバマ大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い沖縄出身の国際人。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また、2009年モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。

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