回顧録(23) 日本経営者同友会 会長 下地常雄

パレスチナ自治政府 アッバス議長就任直後の来日秘話

 2005年4月10日に沖縄の那覇で開幕した第46回米州開発銀行(IDB)年次総会は、IDB沖縄年次総会実行委員長でもあった稲峰恵一知事(当時)が、2000年の九州・沖縄サミットに続く国際会議として力を入れたものだった。

 だが、1つだけ失敗があった。それは4月10日朝、南米のボリビア共和国からカルロス・メサ・ヒスベルト大統領を沖縄に迎えた時、パトカーが先導してエスコートしなければならないところを、その任にあたるべきパトカーがあろうことか大統領が乗り込んだ車の後ろについただけだった。沖縄が国際会議慣れしていないとはいえ、不手際も甚だしかった。

 さらに、宿泊ホテルも単なるツインルームに過ぎなかった。一企業のトップならそれでもいいかもしれない。だが相手は一国の元首だ。びっくりしたボリビア共和国の在日大使は私に電話してきた。

 「一体、沖縄はどうなっているのか」

メサ大統領に詫びた非礼

 翌日、私はメサ大統領が沖縄から帰国する際、経由地の大阪で飛行機出発までの時間を利用して面会した。そして、メサ大統領に我が国の非礼を詫び、今回の沖縄訪問では行き違いがあり、大統領には不快な思いにさせたことを謝罪し深々と頭を下げた。

 無論、メサ大統領はそんなことに目くじらを立てるような人物ではない。

 メサ大統領は「イッツOK! でもお心遣いありがとう」とにこやかに笑って答えた。

 私はホッとして帰国の飛行機を待つまでの時間を利用して、メサ大統領をサンタマリア号に案内し、潮風に吹かれながらの大阪湾クルージングを楽しんでいただいた。大阪湾のサンタマリア号は、コロンブスが新大陸に到着したサンタマリア号を2倍に復元した観光船だが、メサ大統領には強い思い入れがあったようだ。私にできるせめてもの償いだったが、心から喜んでいただき、メサ大統領は無事、4月11日午後5時半発のAA723便で帰国の途につかれた。

 しばらくして妙智会から、5月14日の宮本丈靖会長卒寿祝賀パーティーのメインゲストにノーベル平和賞受賞者のカーター元米大統領など外国要人を呼べないものかとの相談があった。妙智会は立正佼成会同様、霊友会から分派した教団で、信者数は30万世帯とされる。

アッバス議長訪日

 カーター元米大統領は当初、快諾してくれていたものの、急遽、アフリカの選挙監視団の業務が入り、訪日できなくなった。

 それでボリビア共和国の在日大使を介しメサ大統領に打診したところ、「さすがに日本へは行ったばかりで、公務を放り出して行くことははばかれる」とのメサ大統領の返事だったが「友人のパレスチナ自治政府トップのマフムード・アッバス議長が、アルゼンチン訪問予定が入っているから行けるかもしれないよ」との前向きな提案があった。

 早速、メサ大統領の紹介を受ける形でアッバス議長に訪日を要請すると、快く了承してくれた。

 ところがこの来日は、最初のきっかけとは違って外務省からアッバス議長の私的訪日を、公式なものに引き上げ、小泉純一郎首相との首脳会談をセッティングしたいという話に発展した。

 無論、パレスチナの利益になることだ。私に異論はなかった。

議長の平和構築路線

 アッバス議長は2003年4月、武力闘争放棄を掲げて首相に正式就任した。

 パレスチナで行われていたこれまでの武力闘争に対し、アッバス氏の基本路線は対話による平和構築だ。武力闘争の放棄を公言するには、想像を絶するほどの勇気がいる。

 私はアッバス議長の穏やかな表情の裏に、秘めた強靭な意思と決断を見た。

 しかし、ヤセル・アラファト議長の影響力が残る中での改革はこれまで不可能だった。

 ゲリラ型指導者のアラファト議長は治安組織と情報機関を手放そうとはしなかった。政争を生き抜いてきたアラファト議長とすれば、生命線の武力と情報収集力を手放すことは死滅を意味していた。

アラファト議長の死

 そのアラファト議長も2004年に死去した。翌年の2005年1月、アッバス議長は自治政府選挙で新議長に選出され、アッバス新体制が発足した。

 アッバス新体制が目指す対話による平和構築路線を支えることができるのは、日本を含めた自由民主主義陣営のバックアップとパレスチナの地に根付いた産業育成力が不可欠だ。

 パレスチナは長い間、農業とイスラエルへの出稼ぎ以外に収入の道がなかった。放置すれば支援金に依存するだけの経済に陥りかねない。

 パレスチナが国づくりをすすめ、安定していくためには、経済的自立の道を確立するのが第一だ。

 そのため雇用創出のための外資誘致がカギを握る。そこにこそ、日本の大きな役割がある。職業訓練や技術援助、企業活動のためのインフラ整備、企業誘致などへの協力だ。

パレスチナの2地域

 パレスチナというのは、イスラム原理主義のハマスが実効支配するガザ地区とヨルダン川西岸のパレスチナ自治政府の2つの飛び地からなる。

 ガザ地区はイスラム原理主義による戦闘意欲が強く、イスラエルの攻撃を受け荒れ地が多く経済開発には向かない

 その点、経済も治安も比較的安定し、インフラ整備も進み始めているヨルダン川西岸のパレスチナ自治政府には地政学的な経済開発のメリットがある。

 中東和平実現には、ガザ地区を実効支配するハマスなどイスラム過激派勢力をイスラム諸国間で孤立させることが肝要だ。

 イスラム原理主義のハマスの設立憲章には、イスラエルが謳われている。イスラエルとすればハマスは中東和平実現のための交渉相手になっていない。イスラエルにとってハマスが交渉相手になるには、憲章削除と武器放棄が条件だとしているほどだ。

 その意味でも穏健派のアッバス議長を支え、その政治力を育成していくことが、中東和平実現の現実的なステップだと確信している。

 それ故アッバス議長を日本に招いたのは私だったが、油揚げをトンビにさらわれるような形でアッバス議長の私的訪問を公式訪問に切り替えようとした日本政府に異議を唱えるようなことは一切しなかった。

妙智会パーティーに議長出席

 しかし、外務省から警備上、ホテルオークラでのパーティへ出向くことはせず、宮本会長が帝国ホテルに表敬訪問に出向いてほしいと提案された。またテレビ出演、インタビューなど、議長滞在中のスケジュールは分刻みで既に埋められていた。議長へ日本訪問の要請を出したのは同会であり、何より妙智会への義理だけは果たしたかった。幸い外務省OBの友人の協力もあり、結果、当初の要求どおり、ホテルオークラでの宮本会長米寿の祝賀パーティへのアッバス議長出席が奇跡的に実現した。

 当日、私はホテルの玄関を見下ろせる部屋を取り、アッバス議長一行が到着するのをじっと待った。

 パトカー先導で議長を乗せた黒塗りの車列が定刻にホテルの入り口におもむろに入って来たのを見た瞬間、私は不覚にも感極まり、涙があふれた。

 なおカーター元大統領は、私の顔を立ててくれて、ビデオレターを送ってくれた。また古くからの付き合いであるレーガン元大統領のナンシー夫人も祝電を寄せてくれた。宮本会長の祝宴は滞りなく盛大に執り行われた。

米大統領の中東和平案

 あれから15年の歳月が過ぎた。

 トランプ米大統領は1月28日、5兆円規模の経済支援を伴う中東和平案を提案したが、アッバス議長は同日、ヨルダン川西岸のラマラで記者会見を開き「トランプ米大統領が話したことは、ばかげたことだ」とした上で「1000回もノーという」として拒否する意向を示した。和平案にはイスラエルが軍事占領した土地に設けた入植地の主権を認めるという明らかな国際法違反がある。国連安全保障理事会が入植停止を決議しているにも拘わらずだ。これを自国領に組み入れるなど許されるはずもない。エルサレムを不可分の首都とするイスラエルの主張を受け入れ、東エルサレムを将来の首都と訴えるパレスチナにあてがわれる候補地はその郊外でもある。故郷を追われたパレスチナ難民は今や、500万人にのぼる。この人々の故郷に戻りたいという願いも和平案は否定した。

 パレスチナを含むアラブ諸国・地域でつくるアラブ連盟は2月1日に開いた緊急外相級会合で、同和平案を「パレスチナの人々の最低限の権利や願望を満たしてない」と批判し、拒否する決議を採択、アラブ全体では引き続きパレスチナ支援で一致する方針を確認した。

 これまで中東和平実現のため歴代米大統領が仲介の努力を試みてきたが、武力闘争を放棄し地道な経済開発の努力を積み重ね、対話路線を維持していこうというアッバス議長の穏健路線を支えていくことが和平実現の本道という信念はいささかも揺るぎがない。