社会の片隅に押しやられた
閉塞感が生んだテロ近代史

我が国の近代史は、凶弾や凶刃による「暗殺」と同時並行の裏街道が存在する。多くの場合で共通するのは、表向きの「愛国心」の裏側に潜む、社会の底辺に押しやられた恨みの反作用エネルギーだ。

強力なリーダーシップで明治をけん引した大久保利通は1878年、紀尾井坂で惨殺された。犯人は旧加賀藩士・島田一郎ら6人の不平士族だった。彼らが手にしていた「斬奸状」には「大久保独裁体制」への批判がある。だが内実は武士という「安定公務員」の職を奪われ社会の荒波に放り出されて生活に窮していた不平士族が、一発逆転の道は「愛国」という大義名分の下、要人殺害の挙に出たものだった。

原敬首相が刺殺された1921年以後、日本列島は暗殺連鎖の時代へと入る。1930年、浜口雄幸首相東京駅構内で銃撃された。犯人は21歳の青年・佐郷屋留雄だった。

佐郷屋は浜口首相の天皇の「統帥権干犯」を批判したが、取り調べで「統帥権とは何か」と問われると何も答えられなかった。当時の新聞には「首相狙撃犯人は満州ゴロの無頼青年」「私生児として生まれ満州・南洋を放浪」とある。

1932年には五・一五事件で、海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し、満州国承認に反対していた犬養毅首相を暗殺。1936年には陸軍青年将校らがクーデター未遂事件(二・二六事件)を起こし、高橋是清・大蔵大臣や斎藤実・内大臣を暗殺した。

この五・一五事件と二・二六事件は、共に末端兵士の若手将校が中心軸で動いていた。部下の1等兵や2等兵から常々「田舎の妹が売られていく」と聞かされ、こんな世情を仕切っている連中が許せないとの「義憤」がテロ実行の背中を押したとされる。

1960年には日本社会党委員長の浅沼稲次郎氏が、高校生だった山口二矢に刺殺された。山口の父親は自衛官だったが、当時は安保闘争が燃え上がり自衛隊に対する風当たりも強かった。教師からは自衛隊否定論を聞かされ、それに山口が反発すると同級生からは「右翼野郎」などと侮蔑された。

自分だけがなぜ辛い思いをしなければならないのか、鬱屈した心情を埋めるために「赤化阻止」を自らに課したのではと見る人もいる。

いずれにしても2022年の安倍晋三元首相の銃撃事件は、「歴史は繰り返す」との感慨を深めざるをえない。

なお今回のテロ事件処理で参考になるのが五・一五事件だ。

このテロ事件では、ピストルで銃殺した首相殺害犯さえ死刑にしなかった。犯人たちに多くの同情が寄せられた世論の動向に流され、軽い処分しか下されなかったことが4年後の二・二六事件、さらにその後の危機を招くことになった。