悔やまれる帝国ホテル建て替え

日本経営者同友会会長 下地常雄

問われる経営者の品格

皇居の下には地下鉄が通っていない。
丸ノ内線は四ツ谷から東京まで直線で3キロ半だが皇居を避け、ぐるりと回って5キロを走る。
銀座線も赤坂見附から神田まで直線で3・7キロだが、これも皇居の淵を半周し5・9キロを走る。
合理主義者からすれば徒労感を覚えるものかもしれないが、畏敬すべきものを持っていることは日本の欠くべからざる遺産だ。
皇居前に建っている帝国ホテルもさすがに、窓を北東にとり北西方向の皇居を見下ろすような造りにはなっていない。 その帝国ホテルが今春、建て替えを決定した。
建て替え対象は、帝国ホテル東京本館とタワー館などだ。
旗艦ホテルである帝国ホテル東京は、3代目の建物である本館の建物が、竣工から50年を経ており、また、1983年に開業したタワー館も竣工から39年が経過している。
通常の合理主義者からすれば、十分利益も叩き出したし次の時代に向けた器づくりを考えるのも分からなくもない。
ただ、日本的美風と歴史を大事に守り育てることに注力する国際的感覚からすると、それでいいのかと言いたい。
多くの人々の歴史を壊してまでも営利主義に走ろうとすることに大いに疑問を感じる。
その点、銀座の和光ビルは立派だ。
輸入時計・宝飾品等を扱った服部時計店(現・セイコー株式会社)の創業者・服部金太郎が、「時計塔」を建てたのは明治27年のことだ。
戦後は一時、進駐軍によって接収されたものの、やがて服部時計店の小売部が独立した「和光」店舗・社屋として再スタートし現在に至っている。戦時中、銀座は空襲で焼け野原と化したが、震災に強い天然の御影石を外壁に使っていたこともあり焼失を免れた。
ただ驚くべきは外的な震災への備えがあったというだけでなく、歴史的な面影を残し続けようとした意思が子々孫々と受け継がれていることだ。
和光ビルは、外観はもちろん建物の主要部がほぼ創建当時のまま残る稀有な事例となった。
しかも銀座の一等地という東京でも有数の地価を誇る場所でだ。
歴代経営者は単にそろばん勘定だけでなく、初代の思い入れを綿々と受け継いできた結果であることが鮮明に読み取れる。
和光ビルは服部家の名所であると共に、その心意気は誰しもが頭を下げる。
日本は、老舗が多いことで世界に知られる国だ。
和光はその老舗の中でも、単に歴史があるというだけでなく、その名前に負けず誇りある日本的精神性をも秘めた光り輝く場所を創り上げることに成功した。
その和光に劣らず、帝国ホテルといえば、多くの人々の思い出に残る文化遺産といってもいい場所だ。
このホールで多くの日本人が結婚式をしたことだろうし、東京を新婚旅行に選んだ地方の人々は少なからず帝国ホテルを宿坊とした。
その意味でも帝国ホテルというのは単なる建物ではなく、人々の青春と希望と喜びの記憶に満たされた思い出の地でもある。和光ビルが日本一の目抜き通りのランドマークとすれば、帝国ホテルは皇居前のランドマークだった。
それをそろばん勘定だけで解体し、21世紀のホテルとして再建するというのは考えが浅いように思う。
耐震性など安全性に問題があるというなら分からなくもないが、帝国ホテルの耐震性は今なお十分な強度を誇っている。
それをまるまる壊し、更地にした上で新しく帝国ホテルを再建するというのだから、呆れてしまう。
解体すべきは、ただそろばんを弾こうとする頭の中身だ。
欧州では歴史を帯びた古いものはリフォームを重ねながら維持し続け、文化財として守り続けている。
歴史の重みにおいては、負けることのない一方の我が国が、損得勘定の採算性のみで動く打算の民族と思われるのは恥ずべきことでもある。
歴史ある日本のホテルは近年、すべからく壊されてきた。
キャピトル東急ホテルにホテルオークラ、パレスホテル、靖国パレスと数え上げれば枚挙にいとまがない。
キャピトルホテルの中華料理・星ケ岡は、重厚な雰囲気があったものだが、建て替え後は単なる食事処になってしまった。こういうのは心底、残念に思う、長年親しんだものとすれば寂しいかぎりである。
京都は町を挙げて古い街並みを残す努力を続けている。高層建築には高さ制限を設けるなど、不便はあっても歴史資産を守り続け、世界に名だたる古都としてのステイタスを維持している。京都のすごみは、それをビジネス資源として活用しているところだろう。単なる精神論だけで歴史資産を恒常的に維持管理していくことは現実的ではない。それを世界から人を呼び込む吸引力として活用し、京町家の佇まいや伝統的生活文化を受け皿にした宿泊業や飲食・旅行業を中心にした観光産業や京都産製品のブランド化に
向けた産業振興を図っているのが京都だ。 何より日比谷は明治時代以降、外国貴賓のための本格的なホテルとして建設された「帝国ホテル」や東京で初めてのホテルとなる「東京ホテル」など「おもてなし」の地として発展した。
「おもてなし」は豪壮な建築や優雅な内装が保証するものではなく、内に秘められたハートがなければ命が通った「おもてなし」とはならない。
そのハートの主要部分が欠落しているとしか思えないのが、今回の帝国ホテル建て替えの決定だった。
解体すべきは営利至上主義であり、再建すべきは歴史と人々の心に寄り添うハートだ。
それがなければ、輝かしい帝国ホテルの高いブランドも、いずれ地に落ちる。
胸に去来するのは、三井不動産の復興に尽力し社長、会長を務め、初代不動産協会理事長にも就任した江戸英雄氏のことだ。
戦後屈指のディベロッパー(都市開発者)だった江戸氏は、東京、千葉、茨城に日本を代表するランドマークを残し、死してもなお燦然たる輝きを放ち続けている。
今、江戸氏は泉下で何を思っているのだろうか。

しもじ つねお

沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。1944年沖縄宮古島生まれ。77年に日本経営者同友会設立。93年ASEAN協会代表理事に就任。レーガン大統領からトランプ大統領までまでの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い沖縄出身の国際人。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また、2009年モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。

日本経営者同友会会長 下地常雄