ペマ・ギャルポのアジア時評
中国政府の介入と宗教統制の危機 ダライ・ラマ法王の後継問題に見る
近年、日本でもチベットのダライ・ラマ法王の継承者問題について、主要新聞、テレビ、その他のメディアで取り上げられるようになった。中には事実に即した報道もあったが、誤解を招く、あるいは有害な報道も少なくない。たとえば、新聞等で頻繁に「チベット自治区のダライ・ラマ」という表現が用いられているが、「チベット自治区」にはダライ・ラマ法王の生誕地であるアムド地方、さらには筆者の故郷であるカム地方は含まれていない。
本来のチベットは、中国によって地理的・行政的に分割・併合された。チベット自治区、アムド(青海省・甘粛省の一部)、そしてカム(四川省・雲南省・甘粛省など)とされており、かつて一つであった文化的・宗教的なチベットの連続性が意図的に断ち切られている。
本年7月2日、ダライ・ラマ法王がみずからの言葉で明確に示したのは、第一に「ダライ・ラマ制度は今後も継続する」こと、第二に「その選出の執行は、ダライ・ラマ法王庁(ガンデン・ポタン)のみによって行われ、いかなる干渉(中国共産党を含む)も受けない」という原則である。ここで言う「執行」とは、チベットの伝統仏教各宗派の指導者たちの意見、ならびに護法尊など宗教的観点を含む多様な見解を尊重したうえで行われるべきものである。
法王は、正式にチベットの宗教的・政治的最高位に就任して以来、数々の民主的改革を推し進めてきた。1963年には、亡命先インドで「チベット憲章(暫定憲法)」を制定し、自らの地位すら法の下にあることを明記した。多くのチベット人はこれに反対し、撤回を求めたが、法王はこの原則を貫いた。
さらに1969年、法王はチベット国民に対して、ダライ・ラマ制度そのものを今後継続すべきか否かという問いを投げかけた。これに対し、宗教界のみならず幅広い層のチベット人から、制度の継続を求める強い願いが寄せられた。
2011年、法王は「転生問題」については90歳になる頃に明確な方針を示すと発言した。それ以来の14年間、法王は亡命社会のみならず、中国本土のチベット人や、モンゴル、ロシアのブリヤート、カルムイク、あるいはヒマラヤ地域の仏教徒、さらに世界各国の信者らと対話を重ね、幅広い意見を取り入れ、熟慮の末に今回の結論に至った。
法王は、まさに民主的な手続きによって関係者の意見を包括的に聴取し、最良の判断を下したのである。
一部の報道では、あたかも後継者がすでに決まったかのような誤解を招く内容もあったが、実際には、法王は現在も健在であり、今回は自身の死後に転生者制度を継続するという原則と、その認定方法を明確にしたにすぎない。
法王がこうした判断に至った背景には、中国政府が2007年に「国家宗教事務条例第5号(命令第5号)」を制定し、すべての転生ラマは国家の承認を得なければならないと定めた事実がある。さらに1995年には、ダライ・ラマ法王によって第11世パンチェン・ラマと認定された6歳の少年、ゲンドゥン・チューキ・ニマを拉致し、北京に忠実な「傀儡」をその地位に据えた事件も発生している。
もちろん、チベット人および世界中の仏教徒、また国際世論はこの「偽のパンチェン・ラマ」を正統とは認めていない。
中国政府はチベット侵略以降、チベット仏教のみならず、すべての宗教を「迷信」と断じ、僧院・モスク・教会を破壊し、聖職者を弾圧してきた。にもかかわらず、今日、同政府が宗教的伝統に反して転生の選定に関与しようとするのは、宗教を政治支配の道具にしようとする意図にほかならない。
今回のダライ・ラマ法王の声明は、無神論を掲げる中国共産党の一党独裁による干渉が通用しないことを明確にしたものと言える。さらに、法王は近著『声なき声』の中で、「共産主義の下に生まれることはない」と明言している。
中国政府による宗教の政治利用、そしてチベット固有の宗教制度への介入に対しては、アメリカ合衆国、EU、そして世界最大のチベット議員連盟を擁する日本も、今年6月上旬に東京で開催された「世界チベット議員会議」において、明確に反対の立場を表明した。もちろん、法王と多数の亡命チベット人を受け入れているインド政府もまた、チベットの高度な自治と自由を一貫して支持している。
法王の90歳の誕生日祝賀会には、世界中から大勢の仏教徒が集まり、さらにアメリカ、英国、インドなどの閣僚級の要人も出席した。これに対し中国政府は、アメリカのルビオ国務長官やインドのモディ首相から寄せられたメッセージに強く反発し、「チベットの独立を支援し、中国の内政に干渉すべきでない」と即座に反論した。
だが、このような中国の言動や苛立ちは、同国がダライ・ラマ法王と、その象徴する「自由」および「正義」を恐れていることの証左にほかならない。
これはもはや単なるチベット問題ではない。「信仰の自由」が権威主義による操作に耐え得るのかどうか─人類全体に突きつけられた試練である。