回顧録 (24)

日本経営者同友会 会長 下地 常雄

「ごめんね」と言って母他界

預けられた叔母の家

父親は徴兵され外地で死亡したというが、実際のところ詳細は不明だ。宮古島の人たちの多くは戦争中、平良港から船で台湾に疎開していた。
母親は終戦後、疎開先の台湾で生まれ3歳となっていた私を連れて宮古島に戻った。しかし、島では仕事がなかったために沖縄本島で職を得た。
小学校2年生の頃、私は叔母の家に預けられていた。お袋は米軍基地で住み込みで働いていたので、週に一回、その当時は珍しかった米軍のチョコレートやチキンなどのお土産をもって、私に会いに帰ってくる生活だった。
叔母の家はクリーニン屋を経営していた。時々手伝っていたからクリーニングに関しては、結構詳しい。
ワイシャツは、汚れる部位は決まっている。袖と襟首だ。無論、全体的にしみを落とすため、基本的な洗濯は必要だが、肝心なのは、袖や襟首の汚れを竹製のササラでブラッシングしてしっかり落とすことだ。最後に糊付けとアイロンがけの技術さえマスターすれば、一人前のクリーニング職人だ。
人は歳をとると、いい加減な服装でも平気になったりするが、私は今でも出掛ける時はきちんとした服装をと心掛けている。ブランド物である必要はないが、清潔でTPOを間違えないことが大事だ。
社会人にとって服装は単にファッションではなく、相手の信用を獲得する戦闘服だ。ビジネスを始めるには、信用が何より肝要だ。
私が清潔な服を好むのは、叔母が営んでいたクリーニング店での経験を通しての美意識を受け継いでいるのかもしれない。

小5、担任から「すぐ家に帰れ」

クリーニング屋だった叔母の家には小学校3、4年までいた。ただお袋は、私が5年生の時に、住み込みの米軍基地での仕事を辞め、産婦人科の病院で家政婦として働き始めた。
一緒に暮らせると喜んだのも束の間、お袋は病気で倒れ闘病生活を強いられた。お袋の病気は良くなるどころか悪化するばかりだった。おばあ(祖母)はお袋が長くないと知り、生まれ故郷の宮古島に連れて帰りたいと言って来た。叔母夫婦がお袋を抱きかかえてくれ、おばあと私の四人がお袋と一緒に船で帰島した。私が小学校5年の4月のことだった。
宮古島に戻りしばらくしてお袋は他界した。
その日、宮古島の小学校で授業を受けていた私に、担任の先生が「すぐ家に帰れ」と言った。嫌な胸騒ぎを覚え、私は一目散に走って帰った。
病床に伏すお袋は、ほぼ虫の息だった。それでも帰ってきた私を目で追うと、お袋は布団の中からそっと手を出して私の手に触れた。温もりのある柔らかい手だった。そして、ただ一言「ごめんね」と言った。それがお袋の最期の言葉だった。
小学生の息子を残したまま世を去る母の無念と、不憫な息子への想いがにじんでいた。その時の光景を私はずっと忘れない。
小学校は結局、六年間で五回変わった。だから、転校時前後の空白があって出席日数は少なかったが、引っ越して学校に通うようになってからは一度も欠席することはなかった。
全出席日数は人より少ないものの、病気やずる休みで欠席したわけではない。私は皆勤賞ものだとひそかに自負している。

肥溜にハマった

家の中にいるより外で走り回る方が好きだった少年時代、畑にあった肥溜にハマったことがある。
その日は、仲間と一緒に凧揚げに興じていた。南風が吹く青空に吸い込ませるようにタコ糸を伸ばしたりするが、風は同じ様に吹いてくれるわけではない。
そうした風に翻弄されて落下する凧を何とか持ち直そうと走り出した途端、私は宙に舞い肥溜に落ちた。
畑の中の肥溜は、掘った穴にドラム缶を埋め込み、周りは草で覆われていた。畑の持ち主なら、その位置を間違えることはないだろうが、〝一見の客〟に過ぎない小学生の私には分かるはずもない。
小学生の私の胸の高さで、ドラム缶の底に足はついた。しかし頭などにも跳ね返りがある。
私は近くの川にめがけてダッシュした。仲間に目をくれる余裕もない。
まず、手と顔を洗い、それから上着を脱いで上半身の汚れを落とした。しゃがみこんで下半身を洗えば結構、すっきりした。
川の淵は土手になっていて、何人かがその道を通過した。
「どうしたのか?」「大丈夫か?」などと声をかけてくれる人もいたが、「私は大丈夫です!」とすまして答えて汚れを落とした。
人生を振り返ると、少年時代の肥溜落ちは懐かしさすら感じ、ほのぼのした思い出だが、社会に出て、私は世間の肥溜に手酷く落ちたことがある。連帯保証人になった取引先の会社の倒産に伴う絶体絶命のピンチだった。こちらの肥溜とその匂いは二度と体験したくない酷な思い出だ。

中学卒業時の寄せ書き

中学校の成績は人に見せられたものではなかった。それでも体育は例外だった。教室ではしょぼくれていた私も、運動着に着替えての体育の時間は俄然、張り切った。
自分でいうのもなんだけれども、体育の時間だけはヒーローだった。
中学校の同窓生が寄せ書きをしてくれたノートにも、運動能力の高さを一様に評価してくれている。
「テニス、卓球、バスケット、マット、学校では何でもこなしたスポーツマン」(池田)
「いつも朗らかでスラリとのびた足、美しい体つきはなんだか裕次郎を思わせるよう。あなたは将来、立派なスポーツマンになれるでしょう」(高原)
中には「君のスポーツマンらしい、柔かいその身体、君は第18回東京オリンピックに出場して、そうとうな成績をあげられる気がする」(友利)とか「64年の東京オリンピックでの活躍を祈る」といった異様な惚れ込みぶりのものまであった。
さすがにベタ誉めに過ぎるが、これには運動能力の高さを悪いことに使うなとの戒めが込められた言葉だと受け止めた。
寄せ書きの中で性格に言及しているのは、「いつもニコニコしていた常雄君。君の顔を見れば、僕までも朗らかになるよ」(宮里)とか、「いつも会うたびに笑わせてくれた。僕も君の性格を少しでも見習いたい」といったものもある。
故郷というのは母親の存在が大きいが、同級生の存在も同じくらい大切だ。今でも少年時代の友達やクラスメイトとは交流が続いている。