回顧録 (28)

日本経営者同友会 会長 下地 常雄

李登輝元台湾総統、生誕100周年 「尖閣は日本のものだ」

今年は、台湾の李登輝元総統生誕100周年を迎える年だ。李氏は1923年1月15日、台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)で生まれた。

李氏は司馬遼太郎氏との対談で「自分は22歳(1945年)まで日本人だった」と語り、「難しいことは日本語で考える」と公言するほど親日家として知られている。

その李氏は2020年7月30日、97歳で逝去、すでに3年余りが経過する。

「信頼できる人でないと…」
プロテスタント長老派のクリスチャンであった李氏は、イスラエル民族を奴隷の地エジプトからカナンへと導こうとしたモーゼを敬愛した。自らも台湾を中国のくびきから解き放つことを生涯の仕事と課し、総統職を離れて以降も、対米・対日関係の強化に向け精力的に動いた。

私は以前、李氏から米国と台湾の政治的絆を深めるための協力要請を受け、台北の李氏の事務所を訪問したことがある。

その時、李氏に「なぜ私ですか?」と尋ねたところ、李氏は「あなたのことはよく知っていますよ」と応え、手にした私のデータを見せてくれた。

「総統のことですから、人脈はいくらでもおありでしょう?」と言うと、氏は「信頼できる人でないと、この仕事は務まらないんですよ」と微笑んで答えてくれた。

この時、李氏に持参した土産は、頭山満の書だった。これが難解な字で、正直言うと何が書いてあるのか分からない。

日本と台湾は運命共同体、同じ民主国家だ。台湾が強権国家・中国に取り込まれてしまえば、東アジアの安全保障は危機に瀕する。

日本の精神性を高く評価
李氏とは、約1時間半ほど1対1のサシで話した。

海外の人との会話では生まれ育った風土や文化の違いを多少なりとも感じるものだが、李氏にはそうした感覚は一切覚えなかった。

氏は日本人そのものだった。水が合うというか、違和感は皆無と言っていいほどなかった。

「22歳まで日本人だった」と自負する李氏は、日本の精神性を高く評価する。

氏は日本人が「東日本大震災での混乱の中、秩序を保ち、他人を思いやる気持ちを忘れなかった」ことをわがことのように誇らしく語った。

米ロス大地震の時には、混乱の中で人々は商店街に繰り出し、ガラスを割りドアを蹴破って、商品を盗んだと報道されたが、東北では警察も身動きがとれなかった混乱の中で人々は列を乱すこともなく、配給のおにぎりを受け取り、数が足らない時は自分のおにぎりを半分に割って隣人に分けた。町の商店が襲撃を受けたという話は一切耳にしたことがない。

こうした日本精神を、李氏は日本滞在中に日常生活の中で触れただけでなく、台北の旧制中学時代にも身に着けたように思われる。

昨今の偏差値偏重のエリートを育てる進学校とは違い、旧制中学には基本的な人間力を培う教育哲学があった。

とりわけこの時代の哲学や文学、歴史といったリベラルアーツ(教養教育)による魂の育成は、個人の生涯の生きざまを決定づけるものだ。

李氏も西田幾太郎や倉田百三、鈴木大拙、新渡戸稲造らから大いに啓発され、「内面と向き合う大事な時間だった」と述懐している。

「尖閣は日本のものだ」
現在、日中間でもめている尖閣諸島問題にしても李氏は「尖閣は日本のものだ。日本はしっかり尖閣を守らなければいけない。いつでも私は日本を応援している」と私に心強い持論を述べてくれた。

李氏はこれまで常に、台湾には尖閣諸島に対する誤解が存在すると主張してきた。尖閣諸島は戦前から優良な漁場だったが、最も近い石垣島などは市場が極めて小さいため、漁船は取れた魚を台湾に運んで売りさばいていた。台湾から尖閣周辺に出漁する船も多かった。そのため、台湾の人々は尖閣諸島を「自分たちの島」と思い込むようになったという。

李氏は「尖閣諸島が日本の領土であることは歴史的に見ても疑いのない事実であり、尖閣諸島が台湾に属したことは一度もない」と断言した。

しかし台湾政府の立場は、尖閣を自国領とし馬英九政権時代には李氏の主張を「主権を葬る国辱の言説」と非難した。また、現在の蔡英文政権にしても自国領とする立場は変えていない。

李氏が尖閣諸島に関する歴史的事実から日本の領土としただけでなく、東アジア全体の安全保障を考えてのことでもあったように私には思えてならない。南シナ海に原油埋蔵が発見されたことで突如、中国が尖閣諸島の領有権を主張するようになったことで、東シナ海の安全保障が無用な火の粉を浴びないようにとの配慮があったように思えるからだ。

米台の絆を強固に
中国が軍備増強に走る一番の目的は、台湾の統一併合にある。もし米国が中国に配慮し、台湾が中国の領土と認めるようなポーズをとれば、間違いなく中国は増長する。これこそがとても危険なことだ。

台湾が中国の侵略を受けた時、一番の打撃を受けるのは日本だ。

台湾海峡には一日400隻の船舶が往来している。

日本はシーレーン(海上交通路)を中国に抑えられてしまい、喉元を絞め付けられるような屈服を余儀なくされる。

そして台湾の次は尖閣、沖縄、朝鮮半島と一歩ずつ日本に迫ってくることになるのは必至だ。

李氏が私を呼んだのは、米台の絆をより強固にするためだった。

米国をしっかり台湾につなぎ止め、盤石の後ろ盾を構築しないことには、蛇ににらまれた蛙の運命が台湾に待ち受けることになりかねないのだ。

その意味でも、昨年8月2日にはナンシー・ペロシ下院議長(民主党、カリフォルニア州)が訪台。そのわずか12日後には、エドワード・マーキー上院議員(民主党、マサチューセッツ州)ら米国連邦議会超党派の議員団5人が台湾を訪問した。

それ以後、陸続と訪台議員団は続き、今年9月1日には米下院のロブ・ウィットマン軍事副委員長(共和党)が訪台し、蔡英文総統と会談した。台湾への支持を改めて表明したウィットマン氏は「米国には台湾への武器売却の遅れを解消する義務がある」と述べている。

天国の李氏にしてみれば、自分が蒔いた種がやっと芽吹き始めているとの感慨があるのかもしれない。

李氏は「課題山積でも、目線は水平線を見失うな」という生き方を通した人物だ。

李氏は政治家に転身して、いつも難題と取り組んできた。しかし、目の前の実務的処理にほとんどの精力を奪われながらも、最終ゴールを見つめる目線だけはしっかり保ち続けてきた偉人であったことは確かだ。