書評

「正義」のバブルと日本経済

藤井彰夫著

正しい判断をゆがめてしまう

正義は時として人々の判断を誤らせてしまう。マイナ保険証問題はデジタル敗戦の典型例で、諸外国なら問題にならないほどの人為的ミスのため、マイナンバーカードの普及が遅れ、医療情報が統合できないでいる。マイナ導入当初、野党は国民総背番号制で政府の監視が強まると反対したが、公正でない人を応援し、正義を掲げながら正義を後退させた。デジタル技術競争力で、日本は対象63カ国・地域のうち32位に低迷している。

国民統合のシステムとしての政治は合理的・価値中立的に行われるべきだが、国民感情に訴えた方が効果的なので、政府が正義を掲げるときには注意を要する。経済記者の著者が特記するのは、失われた30年をもたらした旧大蔵省の総量規制。既に下落傾向だった地価に劇薬となり、バブル崩壊を招いてしまった。

正義も人によって異なる典型が少子化対策。人口は統計の基本なので、人口減少の問題は1970年代から学界では定説だったが、政府は何の対策も打たなかった。岸田総理の言う「異次元」とは、これまでの対策が役立たなかったということ。著者の結論は、働き方改革を含め生きやすい社会への転換である。

人は安全地帯に身をおいて、相手を批判しがち。日本人の多くがそれにうそを感じるのは、「私は間違っている」から出発する浄土信仰の影響が大きい。悪の自覚を持つことで、正義の過剰を防げる。分断社会にならないよう、健康な日本をとりもどしたい。
(日経プレミアムシリーズ 定価1100円)

「𠮷田 満─身捨つる程の祖国はありや─」

貝塚茂樹著

「死者」から戦後日本を考える

1945年4月、戦艦大和は米軍機の攻撃を受け、徳之島の西北沖で撃沈、𠮷田満は艦橋から戦友の死を目の当たりにした。頭部に裂傷を負いながら生還した𠮷田は同年9月、疎開先の隣に住んでいた吉川英治の勧めで、文語体の「戦艦大和ノ最期」を書き上げた。

その写本を読んだ小林秀雄が雑誌掲載を依頼してきたが、GHQの検閲で不可に。日の目を見たのは占領終結後だ。本書は戦友たちの死の意味を問いながら、日銀社員として戦後復興・経済成長に尽くしてきた𠮷田の生涯をたどっている。

興味深いのはキリスト教との出会い。写本を見たカトリック神父と一晩語り明かし、初めて理解されたと感じた𠮷田はやがて受洗する。その後、妻がプロテスタントだったことから牧師との交流が始まり、彼の戦争責任論に啓発され、死生観に神の視点が加わるようになる。

1970年代、𠮷田は戦没学徒の遺書や手記を手がかりに、「公と私」の問題を考えるようになる。例えば「生きるには、ただ単に私に徹するのではなく、私を真に生かす、真の公がなければならないのではないか…〈私〉というものは、真実な、新しい〈公〉に役立ててこそ、本当の私となる」と。私のない戦没学徒から、過剰な個人主義に疑問を呈した。

著者は「戦没学徒の亡霊が、…繁栄の頂点にある日本の街をさ迷い歩いている」幻覚にとらわれることがあるという𠮷田の言葉に衝撃を受けたという。
(ミネルヴァ書房 定価4620円)

『台湾の半世紀』

若林正丈著

「自治」から「自決」への民主化

日中国交樹立に伴う日台国交断絶の1972年に台湾研究を始めた著者が、個人史を交え台湾の50年を読み物にした。国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃れ、「大陸反攻」をスローガンに、15%の外省人が85%の台湾生まれの本省人を支配した。

本年2月の総統選挙では民進党が勝利したが、得票率は40%で、国民のバランス感覚の反映と見られる。台中関係の世論調査では「現状維持」が88%で、「独立」は31%に留まっている。著者は、強国に翻弄されてきた歴史から、中米二大国に影響されない、「自決」こそが台湾人の最大の願望だという。

台湾の民主化は戦前の日本統治下に始まる。教育で一定の知識人が生まれ、李登輝もその一人。中国を相対化できるようになったのも、農業や製糖業などの産業振興やインフラ整備が台湾人意識を育てたから。

無血革命と称される1989年の国民投票で選ばれた李登輝総統は著者に、「私はバランサーですよ」と語ったという。メモには「本当の綱渡り」とあり、政治基盤のないまま国民党を変えることの難しさを滲ませていた。

1998年に日本台湾学会が設立され、台湾理解の知的インフラが築かれつつある。近年、日本各地からの空路も開かれ、交流の拡大で興味の対象も食や文化に幅を広げている。熊本ではTSMCの工場が完成し、日本の半導体復興の始まりと期待されている。こうした絆こそが台湾の自決を確保しよう。
(筑摩選書 定価2090円)

『食料危機の未来年表』

高橋五郎著

日本の食料自給率は18%

農水省はカロリーベースの日本の食料自給率を38%としているが、畜産飼料の輸入量を計算に入れると18%でしかないという。韓国や台湾も同様で、国内の耕地面積が狭く、食料や飼料を輸入に頼る工業国の現実だ。ウクライナ戦争で日本の脆弱性が露呈した。

さらに少子高齢化により、日本の農業従事者の平均年齢は2035年に80歳になり、酪農家は半減、米も50年には生産量が半減する。しかし、スーパーには食品があふれているので、国民の多くは危機を実感できない。

日本が米以外の穀物を輸入に頼りだしたのは1961年制定の農業基本法による。その前には、余剰農産物を抱えた米国が、小麦やトウモロコシなどを敗戦国に買わせた歴史がある。

追い打ちをかけるのは温暖化などの異常気象で、耕地は世界的に減少している。化学肥料や農薬の多用、農機具の大型化、経営規模の拡大がそれらをカバーしてきたのだが、微生物の死滅、土壌劣化などで限界が見えてきた。

著者が提案する多くの対策の主眼は、農協や零細農家保護の農地法の改正による農業参入の自由化である。やる気のある若者や企業の参入により、農業の生産性を飛躍的に向上させるか、定年退職者が中心の集落営農により地域の農業を守るしかない。市場経済を基本にしながら、農業に手厚い補助金を出しているのは米国はじめ世界共通で、むしろ日本は少ない。国民の理解が必要なのは当然だが。
(朝日新書 定価979円)