日台は一衣帯水の兄弟分 東アジアの安全保障に責任
衆議院議員
島尻安伊子氏に聞く
2年間の雌伏期間を経て、島尻安伊子氏が永田町に戻ってきた。この期間、沖縄3区でのドブ板行脚を続け、「沖縄が抱える問題に接することができるチャンスを頂き感謝だった」と至って謙虚だ。その島尻衆議院議員に本土復帰後50周年を迎える沖縄の振興問題や辺野古基地移転、中国海警船の恒常化する尖閣沖領海侵入などを聞いた。
(聞き手=徳田ひとみ本誌論説委員)
──少しのお休みを経て永田町に復帰されたわけですが、春に咲く花の多くは凍てつく冬を越えて力を付けているものですが、島尻先生にとってこの期間、どういった意味をもつものになったのでしょうか?
そもそも私の政治活動は、那覇の市議会議員から始まりました。
ただ市議は、二期しかやってないんですよ。その二期も最初、補欠選挙から出て、本選がすぐだったので、二期ではあるのですが、結局3年しかやってないんですね。
その後、すぐに参議院議員に立候補して、それからずっと突っ走ってきた感じがあります。
2016年の参議院選挙では、落選しました。これがただの落選ではなくて、それまで沖縄担当大臣だったので現職大臣の落選という、しかも選挙区が沖縄ですから、安倍政権に迷惑をおかけしたというのがすごくありました。
そのあと、菅官房長官に引っ張ってもらって大臣補佐官をやらせていただきました。
それを2年ちょっとやらしていただき、2019年4月、衆議院第3選挙区の補欠選挙でも落選しました。
でも正直、そのあとの活動というのは忘れがたいものになりました。
それまでは参議院議員としてやってきてはおりましたが、衆議院議員でしかも沖縄第3選挙区で、辺野古を抱える難しいところでしたから。
そこで浪人時代の2年間を活動することで、改めて沖縄が抱えているシリアスな問題に対峙することになりました。今回はコロナのあとをどうするのかという経済的な訴えをしなければいけませんでしたし、3区内を細かく回って、後援会活動もやりながら、沖縄が抱える問題を理解できるチャンスをいただき心底よかったなと思っています。
マイクの前で訴える時も、その問題を抱えている人たちの顔を思い浮かべながら、訴えられるようになりました。
──政治家としてあるべき姿かなと思います。選挙区を自分の足で歩くと、気づくものがたくさんおありなのでしょうね?
そうなんです。
それこそが私の政治家人生での資産となったような気がします。とても有意義なものになりました。
──中国海警船による尖閣沖の領海侵入が恒常化しています。我が国はどういった対応策が必要なのでしょうか?
尖閣周辺に中国の船がきたというのは、しばらく前からのことになりますが、最初は1隻からでした。それがやがて2隻になり、2隻が3隻になりと段々増えて、しかもそっと増えていくので、そこに恐ろしさを感じます。
──不気味ですね。
あの海域は沖縄にとってすごくいい漁場で、宮古とか八重山とか、むろん、本島からも漁師が漁をしているところです。7、8年前でしょうか、「尖閣の魚を食す会」というのを、自民党本部で議連を作ったことがあるんですけど、おいしくて、当時はあからさまに中国が言ったりしてこない時で、今からちゃんとしておかなきゃということで始めたんです。
そこでまずは尖閣ブランドの魚を獲って売ろうと、経済的な基盤を日本としてそこで作りあげないといけないと思ってやってました。
中国海警局の船が頻繁にやって来るようになり、事件も起きました。それ以来、日本の漁師は細々とした魚業もできなくなってしまっています。
──昔は尖閣で、日本の漁師がカツオブシを作っていた事実もありますね。対応策はどういう手立てがあるのでしょうか?
基本は日米の同盟ですから、そこだと思います。
尖閣の西南には台湾もありますから地政学的要衝の地でもあります。
沖縄県としても、現状認識をしっかりやって、どうしたらいいのか国と連携する必要があります。
県知事には県民の命と財産を守るというのがあるわけですから。
沖縄県北大東村議会は、政府に対し自衛隊配備を求める意見書を全会一致で可決したとの報道もありました。「ある外国の一方的軍事進出が南西方面をはじめ、台湾、尖閣諸島等の地域で危険水域に徐々に近づいている」として、名指しは避けつつ中国の海洋進出に「迫り来る恐怖として」、警戒心を示したものです。
──沖縄のマスコミは、そういうことに関しての扱いは小さいですね。
その通りです。
──中国に対する、マスコミのありかたも問われてもいます。なお、中国の台湾統一工作が本格化する中、欧米議員団が訪台し蔡英文総統と会談したり、従来の中国関与路線から離別しています。台湾が中国に取り込まれれば、東アジアの安全保障はがらりと様相が変わってくることが懸念されます。我が国ができることは何だとお考えでしょうか?
それこそ台湾と、当時の琉球との交流というのがあって、特に八重山あたり台湾から移り住んでいる方がたくさんいらっしゃいます。沖縄県の本島にもたくさん住んでいます。台湾の代表所が沖縄にもあるほどです。これは日台のシンボリックな話だと思います。
台湾と日本がますます経済連携を強めていく中にあって、沖縄は県ではありますが、沖縄は台湾の隣にありますし、気心も知れているわけですから、まずは経済的な交流を強化していきたいところです。
そういうところから始めていって人的交流とか、もっと外に分かるようにやっていくべきだと思っています。
何より台湾人が危惧しているのが、中国の統一工作に取り込まれてしまえば第二の香港になりかねないというものです。
大変な危機感を持っていると思います。
かなりな米高官もどんどん台湾に入っているわけで、往年の米台関係とは局面ががらりと変わってきました。
我が国も、東アジアの安全保障に責任があるわけですので、日本と台湾と言うのは一衣帯水で兄弟分ですので、そこはしっかりやるべきだと思っています。
──欧米などの民主主義国家も台湾を応援している状況です。台湾は小さな島国ですが、中台問題は全世界を巻き込んでいく状況にあります。日本の関わり方は大変重要なことで、地政学的にも日本は、台湾との連携を更に密にして、世界に発信することができますね。
そうですね。私も日華懇という議員連盟がありますが、参議院に入ってからずっとやってましたし、それこそ那覇の市議会議員になる前から、琉球台湾婦人会に入って、年3回、4回は台湾を訪問してもいました。
──数年前、私が所属している団体の会長と一緒に李登輝元総統からのお招きを受け、プライベートな事務所でお会いした際に、「日本は台湾を植民地にした経緯があるが、台湾人はみんな感謝している」とおっしゃっていました。日本は台湾で、鉄道や学校など基礎インフラ整備に国力を注ぎ込んでいましたから。とても親日の方が多いですね。先生は高校時代から政治家志向がおありだったのですか?
正直申しますと、全くそうした政治家を目指そうとしたことはありませんでした。
私の夫が沖縄生まれで、小さい時から復帰運動とか、そういうのを見て育ったものですから、沖縄をしょって立つみたいなことを自分で決めて、やっていて何度も国政には立候補しています。
その意味では、私は門前の小僧のような立場で沖縄の政治を見てきました。
──辺野古移転がなかなか前に進みません。基地問題解決に向け島尻先生のお考えをお聞かせください。また、沖縄の底力を引き出す手立てや振興策はあるのでしょうか?
沖縄復帰から50年になります。この50年間、10年ごとの時限立法で変わってきて、2021年でまた切れて2022年から新しいのをどうするのか。まさにこの議論が進んでいるところでもあります。
新聞にも載っていますが、これまで通りの節目をおきながら10年ごとがいいとか、10年10年というのはおかしい。沖縄の振興はまだまだ必要だから、沖縄振興予算を恒久法で担保すべきだとかといった具合です。
こうした議論の最中にあります。
その中で、沖縄振興予算が決まっていくことになりますが、私としては50年たって、これまでかなり明るい沖縄にもなっているし、やはり独り立ちして勝負できるところまで来ているので、むしろそういうところを伸ばしていって欲しいなと思っています。
辺野古移設については紆余曲折ありましたが工事は進んでいます。普天間飛行場の危険性の除去のため一日も早く移設すべきです。
──沖縄は日本人が訪れたい憧れの場所です。観光事業など国の援助に頼ることなく自立するというのはこれからの大切な課題ですね。安倍政権の時、総理は沖縄が日本の経済のけん引役になれるんだと、そういうポテンシャルがあるのだとおっしゃっていましたね。
ポストコロナ、ウイズコロナの時代にあって、新しい沖縄振興法を作りつつ、前に進めていくべきだと思います。
他方、沖縄振興だから、経済一本というのは仕方がないことでもありますが、遅れてしまった教育問題とかも待ったなしの状況です。私が大臣の時に沖縄の子供の貧困対策事業というのを立ち上げてやりましたが、それに見えるように、子供たちの教育をどうしていくのか。ここをもっと充実させないと、貧困対策にならないと思います。
だからこういうところにもっと予算付けして、やっていく必要はあると思います。
──集団と個という問題は私の若い頃からのテーマでした。政界で自分の信念を貫き他との協調を保ちながら上手に生きていくというのは難しいことだと思います。政党の方針と個としての考えが必ずしも一致しない場面もありますしね。政治家と言うのは、変節漢に見られたりしがちです。いろんな状況を考えると、不本意ながらこちらを選ばざるを得ないとか、集団の中ではこちらにつくしかないとか、そのあたりの選択は難しいものがあるだろうなと拝察します。
それこそ辺野古容認と絡んだ話です。沖縄県連が辺野古見直しを決めた後に容認を唱えた時には、地元紙にはぼこぼこにされ、なんだあいつはとか、羽交い絞めにあいつつの政治活動を続けています。
──いろんな情報をインプットしすぎると、身動きが取れなくなったりしがちですね。
そうですね。
──お亡くなりましたけどエリート政治家だったK氏とお話した時、インプットされた多くの情報と、他者との調和をお考えになり、身動きがとれない場面が、あられたように推察したことがあります。理念とは別に 現実問題に対処しなければならない政治家というのは、決断力が問われてくるものです。その意味では大局を見てスパッと割り切れる思い切りの良さも求められますね。パーフェクトな決断はありませんものね。
そうですね。
政治の仕事には、調整するというのがあります。
これまでの政治を見ますと、調整能力があるのが自民党でもあります。
だから国政を担えるのです。これは間違いがないと思っています。
──確かにそうですね。自分の主義主張だけを押し通す信念突進型だと、ひずみがでてくるし、国際的な日本の立場というのが危うくもなります。その意味では岸田首相というのはお上手だとお見受けしますが。
「聞く力」ですかね。
──柔軟すぎると言われても平気な顔で冷静であり続ける。今の日本の立場がそういう立場ですので、こぶしをあげてやるぞという方だとちょっと危ないかなと思います。温柔、曖昧と言われるぐらいが、バランス感覚は優れているのかもしれません。
そうですね。さすが外交をやってこられただけのことはあります。
戦略的あいまいというのがありますからね。
──その岸田政権に何を期待されますか?
「聞く力」とか、今までの安倍政権や菅政権とは少し毛色が違う政権ができたかなと思っています。
沖縄としても国の政策と連携して、進める必要があります。その点、岸田総理は沖縄担当大臣も経験なさって、よく知っていますから、そこに対する期待は沖縄県全体に経済界からのみなさまからもよく聞く話です。
よく政府と連携をとってやらせていただきたいと思います。
しまじり あいこ
1965年、宮城県仙台市生まれ。80年、私立聖ウルスラ学院高等学校入学、同校在学中米国留学。88年、上智大学文学部新聞学科卒。89年、昇氏と結婚。3男1女、4人の母親。2004年、那覇市議会議員補欠選挙で初当選。07年、参議院議員沖縄選挙区補欠選挙にて初当選(無所属=自民、公明推薦)。11年、自民党女性局長就任。15年、内閣府特命担当大臣、自民党沖縄県支部連合会会長。16年、内閣府大臣補佐官。19年、自由民主党沖縄県第三選挙区支部長。21年、衆議院議員選挙で当選。
【聞き手プロフィール】
とくだ ひとみ
1970年3月、日本女子大学文学部社会福祉科卒業。1977年4月、徳田塾主宰。2002 年、経済団体日本経営者同友会代表理事に就任。2006年、NPO国連友好協会代表理事に就任。前在東京ブータン王国名誉総領事。本誌論説委員。