高野山真言宗宿老・大僧正 池口恵観師

自民党、未曽有の危機(上)

派閥は断罪されるべきか?

今、自民党は危機にあります。先だって行われた衆議院の補欠選挙では、1勝もできませんでした。

なぜこのようなことになったのでしょうか。私は鹿児島、高野山、江ノ島と毎月、各地を移動しながら、それぞれの寺で護摩行に打ち込む生活をずっと続けております。そして、その合間を見ては東京に出向き、永田町の政治家の方々とお会いして意見交換をしたり、ご助言を申し上げたりしています。そのため、マスコミなどからは「永田町の怪僧」などと、あまりありがたくない呼び名で呼ばれたりしますが、僧侶でありながら政治のありようをずっと見守ってきたつもりです。

今回はその私から見て、この危機のなかで自民党はどうあるべきか、自民党について論じたいと思っております。いきなりの話になりますが、じつは私は若い頃にある事件に連座して逮捕されたことがあります。1961年の三無事件です。逮捕の容疑は破壊活動防止法、いわゆる破防法です。のちに私は不起訴処分となりましたが、当時はまだ25歳でした。

事件が起きる前の年にあたる1960年といえば、日米安保条約の改定に反対する学生や労働組合の組合員など数十万人のデモ隊が国会や総理大臣官邸を連日のように取り囲んでいました。いわゆる「60年安保」です。国会に突入しようとするデモ隊と警視庁の機動隊が衝突して、東京大学の女子学生だった樺美智子さんが圧死するという悲劇も起きました。

この状況に共産党や社会党は勢いづき、非常に活発に活動を展開していました。まさに革命前夜ともいうべきありさまで、政府が対応を誤れば、共産主義革命が危ぶまれるという状況だったわけです。しかも、ソ連共産党国際部の副部長だったイワン・コワレンコの証言によると、ソ連は日本共産党や社会党、そして労働組合の総評に大規模な援助を与えていたそうです。この時は、反対運動にもかかわらず、60年6月に新しい安保条約が成立しますが、当時の岸信介総理大臣は混乱の責任を取る形で退陣を余儀なくされます。その次の内閣として、池田勇人内閣が発足しますが、共産党や社会党、さらには学生などの左派勢力は、自らの運動によって岸総理大臣を退陣に追い込んだと勢いづき、危険な状況は続いていました。

これに強い危機感を持っていたのが、長崎で造船会社などを経営していた実業家の川南豊作氏を中心とするグループです。グループには九州北部の出身者が多くいましたが、九州北部は炭鉱産業の斜陽化で経済が行き詰まりつつあり、政治への不信が高まっていました。それだけに川南氏らは革命を抑え込むためには従来の自民党による政権に取って代わる必要があると考え、クーデターを起こす謀議を練ります。武装部隊で永田町を占拠して新政権を樹立し共産主義を排除する。そんな計画だったそうです。

当時、私は高野山大学を卒業したものの、まだまだ修行中の身でした。そんな私に川南氏のグループのメンバーとなっていた先輩が仲間になるよう声をかけてくれ、私はメンバーに入ることを決意します。お大師様がおっしゃられた考え方に「鎮護国家」というものがあります。仏教によって国家を鎮め守っていくという考えです。でも、共産主義革命が実現すれば、ソ連や中国のように宗教が弾圧されてしまう恐れが十分に考えられました。そうなる前に仏教を革命から守らなくてはならない。私なりにそのような強い危機感を覚えていたからでした。今から思い起こせば、暴力に加担するなんてとんでもないことを考えていたと言えますが、当時はそれほど必死だったのです。先ほど60年安保にあたり、ソ連共産党が日本共産党や社会党、あるいは総評などを援助していたことに触れましたが、万が一、共産主義革命が起きてしまえば、ソ連の強い影響下に置かれたであろうことは間違いありません。その意味では私の懸念もあながち杞憂だったというわけではないと思います。

なにも仏教のためだけでありません。ソ連がそうだったように、共産主義は往々にして全体主義へとつながり、自由にものも言えない社会へとなりがちです。人間が人間らしく、伸び伸びとそれぞれの持ち味を活かして国家のために尽くせる社会を実現するためにも、共産主義による革命を防がなくてはならないと私は思い詰めていたのです。

メンバーの中でも一番下っ端だった私に課せられた役目は、武装した部隊を国会に引き入れることでした。そのために、長崎県選出の衆議院議員だった馬場元治先生の秘書となり、業務の合間を見ては、国会内の電源や通信機器の配置や警備員の数などを調べ上げました。要するに、密偵のようなことをしていたわけです。

ところが、この計画は警視庁に筒抜けになっていて、実行に移す前にメンバーは一斉検挙されてしまいます。私も逮捕を免れませんでした。留置場にいた私のもとに母から「私の子として恥ずかしい死に方だけはしてくれるな」と手紙が届いたのをよく憶えています。厳しい取り調べが続きましたが、私は突撃隊が国会に突入した際に手引きをする役割だったこと以外はほとんど何も供述しませんでした。実際、まだ若かった私にはクーデター計画の詳しい内容は知らされていなかったのです。

この事件に関与したことで、新聞には顔写真付きで大きく報じられました。僧侶として仏の道に生きる私がこのようなことに関わったのは正しいことだったのか、薄暗い留置場のなかで自問自答を何度も繰り返しました。時には奈落の底に落とされたような思いをしましたし、地獄の底で仁王立ちになる不動明王のお姿を思い浮かべたこともあります。逮捕されたことで私なりに持っていた夢はいったん捨てざるを得なくなりました。どうすれば自分は仏教者として姿を取り戻すことができるだろうか、と苦しみ抜きました。苦悶の時期は数年間続いたでしょうか。その時期に私を支えてくれたのが、お大師様の次のような言葉です。

「それ禿なる樹、定んで禿なるに非ず。春に遭うときはすなわち栄え華さく」

今は枯れていても、いつまでも枯れているわけではない。春になればきっと花が咲く。そんな意味です。人生に無駄なものはありません。あの時期に迷ったことが、その後の私を形づくる肥料となったのです。人の為すことすべてに意味はあるのだと思い至りました。

私も関わった三無事件のことを杜撰で愚かなクーデター計画であったと、後世の歴史家は笑うでしょう。確かに計画は不十分であり、機密保持ができておらず、警察に動きが筒抜けでした。なにより、暴力やテロリズムによって政治を正そうとすることは、決して認められるものではありません。それでも私たちは国家や国民のために命がけだったのです。

この国家や国民のために命がけとなるということをどうぞ胸に刻んでください。今回の話で、みなさんに最もお伝えしたいことだからです。

さて、この三無事件の後、自民党の池田勇人総理大臣が所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長を牽引していきます。さらに続く佐藤栄作総理大臣のもとで、敗戦後の日本の大きな宿題として残っていた日韓基本条約の締結や沖縄返還も成し遂げる成果を上げます。 その後の自民党では、「三角大福中」と呼ばれた、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘といった優れたリーダーたちがそれぞれ派閥を率いて切磋琢磨し合いました。

なかでもポスト佐藤栄作をめぐり田中角栄派と福田赳夫派が争った経緯は、「角福戦争」とも呼ばれるほど激しいものでした。ただ、その争いは世間で一般的に語られるように、総理大臣や閣僚のポストをめぐる権力闘争という側面があったのも事実だと思いますが、同時に日本をどのような方向へと導くのか、政策を戦わせる論争という側面もあったことを見逃してはなりません。例えば、財政ということで言えば、田中角栄が「日本列島改造論」を掲げて積極財政による高度経済成長路線のさらなる拡大を訴えたのに対し、大蔵省出身の福田赳夫は均衡財政による安定した経済成長を唱えていました。

さらに、外交では田中派は親中派として、当時まだ国交がなかった中国との国交回復を急いだのに対し、福田派は親台湾派の立場から中国との国交回復に慎重姿勢を示していました。こうした論争が自民党の政治に幅や奥行きを持たせ、じつに豊かな政策を次々と生み出すことにつながったわけです。このことは大変に大切なポイントです。

その後、総理大臣となった田中角栄は第一次オイルショックに加えて金脈問題で辞任を余儀なくされ、その後は三木武夫が総理大臣となります。さらに、福田赳夫、大平正芳、そして鈴木善幸を挟んで中曽根康弘と、「三角大福中」の全員が総理大臣を経験することになりました。1987年に中曽根が総理大臣を退任した際、ニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の3人が次の総理大臣をめぐって競い合っていました。竹下は当時、幹事長、安倍は総務会長、そして宮沢は大蔵大臣であり、そして、いずれもそれぞれが自らの派閥を率いるリーダーであり、能力や識見、そして経験から言っても申し分のない優れた政治家でした。この3人の中から中曽根は竹下を自らの後継者として選びます。なぜ竹下を選んだのか。のちに中曽根は、自らの総理大臣在任中に売上税、つまり今で言うところの消費税の導入を断念したので、その実現に向けて自民党内をまとめられること、そして当時、容態が悪化しておられた昭和天皇の不慮に備えて「大喪の礼」を滞りなく行えること、この2点を基準に選んだと回顧しています。その結果、竹下が最もふさわしいと考えたわけです。この決定はのちに「中曽根裁定」と呼ばれましたが、自民党のトップを決めるプロセスがいかに厳格な基準で決められ、また運にも大きく左右されるかということを物語るものでした。

3人のニューリーダーは、先ほども申し上げたとおり、いずれも素晴らしい政治家ばかりです。誰が中曽根に選ばれてもおかしくありませんでした。これほど優れた政治家が同時に3人も次の総理候補として並び立つというのは、自民党の派閥が優れた機能を持っていた証とも言えます。ただ、みなさんもよくご存知のとおり、この3人の政治家のその後の歩みは決して順風満帆ではありませんでした。まず、中曽根に選ばれて総理大臣になった竹下は、中曽根の期待どおり、消費税の導入に踏み切りますが、朝日新聞のスクープによって発覚したリクルート事件によってわずか1年半での退陣を余儀なくされます。そして、竹下がいなければ、総理大臣間違いなしともみられた安倍は、竹下政権で自民党幹事長となり、ポスト竹下の最有力と目されるようになりましたが、やはりリクルート事件に巻き込まれてチャンスを失い、さらに病を得て1991年に亡くなります。不運の政治家だったと言えます。

この時よりもずっと後のことになりますが、私は安倍晋太郎のご子息である安倍晋三さんとは大変に懇意にさせて頂きました。父親が志半ばで亡くなっただけに、なんとしても自分が総理大臣になって国政を担うとの確固たる決意を強く感じさせました。また、父親が果たせなかった夢を息子に託そうと熱心な支援者が彼を一生懸命に支えていたのが、印象に強く残ります。3人のニューリーダーのうち、残る宮沢はその1991年に総理大臣の座を射止めます。しかし、竹下派で起きた内紛から自民党を飛び出すことになった小沢一郎や羽田孜らのグループが、野党の提出した内閣不信任案に同調してしまいます。内閣不信任案の可決を受けて宮沢は、解散に踏み切ることを余儀なくされますが、日本新党ブームもあって衆議院選挙で敗北。自民党は1995年の自由党と民主党の保守合同による結党以来、初めての下野を余儀なくされるのです。田中派、そしてそこから分かれる形で旗揚げされた竹下派といえば、かつては自民党内の最大派閥として非常に強い影響力を持ちました。その流れを汲む平成研からは、1990年代後半には橋本龍太郎と小渕恵三という二人の総理大臣を輩出し、その他にも野中広務や青木幹雄といった実力者もいました。 その平成研と衝突したのが、小泉純一郎です。総裁選挙で「自民党をぶっ壊す」と訴えた小泉は、平成研を「抵抗勢力」と位置づけて政権や党の要職から遠ざけました。そうして道路公団や郵政などの民営化を推し進めていったのです。

いかがでしょうか。自民党の派閥はかくも激しく政治を突き動かしてきたのです。自民党内の派閥については、これまでも多くのことが言われてきました。「角福戦争」に代表されるように、激しく権力闘争を繰り広げてきた歴史を持ちます。さらに、閣僚人事にあたって政治家の能力よりも派閥の意向が重視されてポストが決まることも少なくないことから、これまで「功罪」のうち「罪」にあたる部分ばかりクローズアップされてきました。しかし、「功罪」のうち「功」の部分にもしっかりと目を向けなくてはなりません。

「功」といえば、例えば、派閥が存在することによって、自民党は多様な考え方を持った政治家が集まる国民政党たり得てきたということが言えます。例えば、官僚出身者が多くリベラルな傾向の強い宏池会があれば、保守的な傾向の強い清和研、さらに建設業界など各種の業界団体との強いつながりを持ってきた田中派の流れを汲む平成研など、各派閥はそれぞれに特色を持ってきました。

そのことによって、それぞれの派閥が国民の多様な価値観を汲み上げる役割を果たすことにつながり、自民党が広範な支持基盤を持ち、長期にわたり安定的に政権運営を続けることができたということが言えるでしょう。

さらに、新人議員にとっては、派閥は自己研鑽の場でもありました。派閥ごとの勉強会で政策を学ぶことができ、選挙にあたっては支援を受けることもできました。そして、「三角大福中」の全員が総理大臣となったように、派閥のトップはそのまま自民党の総裁候補でもあり、総裁選挙ともなれば、各派閥はトップを当選させようと激しく争ってきました。その結果、総裁が代われば、その派閥が掲げる政策が遂行されることにつながり、いわば「擬似政権交代」の機能も果たしてきたわけです。つまり、派閥が存在することにより、政治に緊張感やダイナミズムが生まれてきたわけです。

【聞き手プロフィール】
とくだ ひとみ

1970年3月、日本女子大学文学部社会福祉科卒業。1977年4月、徳田塾主宰。2002年、経済団体日本経営者同友会代表理事に就任。2006年、NPO国連友好協会代表理事に就任。2018年、アセアン協会代表理事就任。2010年から2019年まで在東京ブータン王国名誉総領事。本誌論説委員。