高野山真言宗宿老・大僧正 池口恵観師

自民党、未曽有の危機(下)

石破政権これからが正念場

与党過半数割れという厳しい選挙結果となった衆議院議員選挙を受け11月11日に招集された特別国会では、衆参両院の本会議で首相指名選挙が行われ、衆院で30年ぶりとなる決選投票を経て、石破茂首相(自民党総裁)が第103代首相に選
出され、本格的な政権運営のスタートを切った。まずは来年度予算の編成、そして来年夏の参議院議員選挙が焦点となる。

目まぐるしく動く政治情勢の中で、石破総理大臣はこれからの日本をどう導いていくのであろうか。総理大臣に就任する前と就任した後では、言動に違いがあるとの指摘もマスコミからは少なくない。石破総理を理解するには、これまでの発言をよく知る必要があろうかと思う。石破総理は永田町では数少なくなってきた自分の言葉で語る政治家とされてきた。読書家として知られ、人一倍、勉強家とされてきただけあって、その言葉は鍛え抜かれている。

興味深いのは、総裁選の直前にあたる今年8月に出版した石破総理の近著『保守政治家 わが政策、わが天命』のなかで、「保守とは何か」と語っていることである。それによりますと、まず、「保守というのはイデオロギーではなく、一種の感覚であり、たたずまいであり、雰囲気のようなものだ」という。さらに、「皇室を貴び、伝統文化や日本の地方の原風景を大切にし、一人一人の苦しみ、悲しみに共感する。その本質は寛容です。相手の主張に対して寛容性をもって聞く、受け入れる度量を持つ、という態度こそ保守の本質です」としている。

「保守主義の本質は寛容である」とは、戦後日本を代表する政治家である石橋湛山の至言だが、石破氏の言葉には石橋湛山の思想が底流にあるのだろう。保守の本質を寛容に置くことは、これまで右派、左派と問わず、あらゆる政治思想、あらゆる政治的立場の方々と関わってきた私にとって、大いに共感できるところでもある。

北朝鮮を5回にわたって訪問し、平壌で現地の高官やよど号ハイジャックグループのメンバーらとの面談を重ねてきたばかりか、朝鮮総連中央会館の土地・建物を落札しようとしたことから、私には大変なバッシングを受けた経験がある。北朝鮮にとっていわば大使館のような存在である朝鮮総連中央会館が機能し続けることは、日朝間の交渉のルートを確保するという意味でも大切なことだと考えていたが、こうした私の言動は、当時なかなか理解してもらえなかった。

でも、この「保守の本質は寛容である」との言葉に倣えば、私の言動もうまく説明ができると思う。寛容を旨とする保守政治家には、あらゆる思想や立場の人たちに対して示すことができる態度や風格というものがある。石破氏も前掲書でこう述べている。「いわゆる右寄りの主張を声高にする立場の人々は、本来は『保守』ではなく『右翼』と呼ばれるべきものだと思います。

政治家も、相手を尊重し、もしおのれに誤りとせば正していく。少数意見を大切にし、国会では野党の質問にも丁寧に答える。それが保守のあり方です」。

堂々たる保守の気概を示したものと受け止めたい。そして、そのような政治をぜひとも実践してもらいたいものである。石破総理は、東京で1957年に生まれた。67歳。父とともに鳥取県に転居している。父の二朗氏は、建設省事務次官から鳥取県知事、参議院議員となった人物だ。石破総理は、父が48歳の時の子だという。高齢で子供ができたことを恥ずかしがって父の二朗さんは病院に行きたがらず、代わりに秘書をよく行かせていたために、病院側は秘書を父親と勘違いしたこともあったそうだ。

多忙だった父の二朗氏には、石破少年のことをかまう時間があまりなかったが、鳥取県知事時代に息子を連れて近くの山に登ったことがあるそうだ。石破少年は父に連れられての山登りは初めてで、すごく嬉しかったそうだが、山から帰るなり父は母に「二度と茂を連れて歩かない」と言い出した。それはなぜか。父の二朗氏はこう説明したという。

「すれ違う人が皆、自分の父親に頭を下げるようなところを倅に見せてはならんだろう」

今年、兵庫県知事によるパワハラが大きな問題となり、出直し知事選挙まで行われることになった。マスコミの報道によれば、この知事はエレベーターに乗ろうとしたタイミングで扉が閉まったことに怒り、部下に「おまえはエレベーターのボタンも押せないのか」と怒鳴り、以来、県庁内に知事のためのエレベーター係を配置するようになったとか。知事といえば、その県内では絶大な権力者である。この兵庫県知事も若くして知事となり、どこかで勘違いして増長してしまったのではないか。かたや石破氏の父の二朗氏の態度は立派だ。息子に勘違いをさせてはならぬと考えたわけだから。

石破氏の母の和子さんも立派だった。知事公舎に出入りする役人たちは、どうしても知事の息子である石破少年のことをちやほやしてしまいがちである、そのうち、石破少年が偉そうな口を役人たちに叩くと、それを見た母の和子さんが激怒し、家から追い出したことがあったという。寒い日に泣いても喚いても、一晩中、入れてもらえなかったと石破総理は回想している。和子さんはこう言ったそうだ。

「お前が偉いわけではない。お父さんが偉いからお前にも丁寧にしてくださっているのに、何という思い上がりだ」

石破総理の幼少期の話を挙げたのは、これらのエピソードが政治家としての石破氏を形成する大切な要素だったのではないかと感じるからだ。政治家たる者、決して驕ることなく謙虚に民の声に耳を傾けなくてはならない。ましてや、先の兵庫県知事のように内部告発の声を上げた県職員を、「嘘八百」と詰るようなことは決してあってはならない。この県職員はのちに自ら命を断った。

石破氏は、父親の二朗氏が亡くなった後に、時の政界の実力者・田中角栄氏から「おまえが出ろ」と声をかけられて、それまで勤めていた三井銀行を退職して政界入りをする。田中角栄を領袖とする木曜クラブの事務局で角栄氏の薫陶を直接受けている。1986年の衆議院議員選挙で鳥取県選挙区から立候補して初当選を果たした。当時29歳。全国最年少の国会議員の誕生である。

ただ、その後の石破氏の政治家としての歩みは、一筋縄ではいかない。衆議院議員1期目に起きたリクルート事件をきっかけに武村正義や渡海紀三朗の各氏らとともにユートピア政治研究会を立ち上げて政治改革に向けた提言を発表。細川連立政権が進めた政治改革関連4法案には、野党に転落した自民党の方針に反して賛成したことから役職停止処分を受けている。その後、当時の河野洋平総裁が「憲法改正論議を凍結する」との方針を示すと、自民党を離党して、小沢一郎氏率いる新生党に参加。さらに新進党を経るも、小沢氏の安全保障や財政再建に向けた考え方に幻滅して1997年に再び自民党に復党した。

この時のことを捉えて、石破氏について「あいつは一度、自民党を出て行ったヤツだ」という言われ方をされることもあったという。それに対して、政治とカネをめぐる問題を正すために自民党を出て、安全保障という国家の根幹を成す政策のために自民党に復党した。いったいその何が悪いのか、という思いを持っていたと前掲書で振り返っている。

そんな石破氏を諭したのが、竹下登元首相だ。竹下氏にこう言われたという。

「石破よ。君は正しいことを言ってきた、と思っているのだろうが、正しいことを言うことは、場合によっては人を傷つけることになるものだということを忘れるなよ」

この言葉を重く受け止めた石破氏は、以来、拳拳服膺していると明かしている。失敗を恐れることはない。恐れるべきは失敗から何も学ばないことである。驕ることなく常に改めるべきは改める。それが政治家のあるべき姿であろう。

その石破氏だが、衆議院議員選挙の日程や、いわゆる「裏金議員」の公認をめぐる問題で、発言が二転三転したとの印象が残る。マスコミや野党からもこの点で厳しく批判された。

石破氏は、自民党内では、防衛庁長官や防衛大臣を歴任して安全保障の専門家となったばかりか、農林水産大臣となって自民党きっての農政通でもあった。2012年の総裁選では、安倍晋三氏と激しく競り合っている。よく知られている通り、当選したのは安倍氏だったが、1回目の投票では石破氏が地方票を多く獲得してトップの票を得ている。その総裁選の後、幹事長に任命されたが、7年8か月続いた安倍政権、そしてその後の菅義偉政権、岸田文雄政権の間、自民党内では非主流派であり続けた。

本人は、著書『異論正論』の中で、当時を「大石内蔵助のような心境」だったと述べている。それは本物の大石内蔵助が主君の仇である吉良上野介を討ったように、ある日、決起して倒閣運動をしようというわけではなく、「あくまでもいつか来るかもしれない出番に備えて研鑽をつんでいた」そうである。この時代、マスコミなどによる「次の首相にふさわしい人」の調査で上位の常連中の常連であり続け、非主流派であるがゆえに、比較的自由に発言できた。それがまた石破氏の持ち味でもあった。ところが、今や日本のトップである総理大臣という立場である。言葉の重みは、自民党の一議員だった時代とは、まったく違う。その一挙手一投足が注視され、迂闊な発言をしてしまえば、すぐにマスコミによって大きく報道されてしまう。いま石破総理は言葉の重みを噛み締めているのではないだろうか。それでも、ブレることのない、しっかりした言葉を持つ総理大臣となってほしいと期待する。

石破氏は政治家になる直前の40年前に自民党の大先輩政治家である、ミッチーこと渡辺美智雄氏から教わったことを今も大切にしているという。その渡辺氏の教えとはこうである。「勲章やカネが欲しくて政治家になった奴は今すぐやめろ。政治の仕事はたった一つ。勇気と真心を持って真実を語る。これしかないんだ」。政治家は有権者に嫌われることであっても、必要な時にはそれを口にして語らなければならない。そう説いているわけであり、渡辺氏の教えも、やはり言葉の重みを表したものだと言えよう。

石破氏は総理となるまでに、様々な主張をしてきた。地方創生や防災省の創設に取り組むとの考えに期待したいと思うが、やはり大きく注目されるのは、日米地位協定の改定とアジア版NATOの創設だろう。どちらも安全保障に関わる問題で、米国との交渉を必要とするだけに、いずれも容易に実現するものではない。

石破総理が有言実行の総理大臣となるのか。これからが正念場である。これまでに4度も総裁選に出て敗北を重ね、5度目の挑戦にしてついに自民党の総裁、そして総理大臣の座を射止めたわけだが、どうしてそうまでして総理大臣になりたかったのか。あるイベントで、この質問をされた石破氏は、こう答えている。「総理大臣になりたいのは、それが手段だから。総理にならないとできないことがある」。石破氏が総理にならないとできないこととは、いったい何なのか。安全保障なのか、地方創生なのか。それともクリーンな政治の実現なのか。しっかりと注視していきたい。