日本経営者同友会会長 下地常雄氏に聞く

下地幹郎氏の政界引退宣言

期待したい捲土重来

先の衆院選で沖縄4選挙区は、改選前と構図は変わらず自民党とオール沖縄が2議席ずつを獲得した。

両者拮抗の政治地図のままでは、沖縄は「水と油」の溶けあわない分断状況が続くだけだ。基地問題などでは意地と意地の衝突が続くだけの不毛さが顕著にもなっている。

こうしたドツボにはまった政治状況を打開できる器量と意欲を持っているのが下地幹郎氏だったはずだ。

反対だけのオール沖縄
おりしも選挙前、辺野古新基地建設問題について「オール沖縄は反対はできるが止められない。政府、自民党が推進するV字案も県民に何のメリットもない」と話したのは下地幹郎氏だった。

その上で、米軍キャンプ・シュワブ陸上部と既存の埋め立て部分を活用した軍民共用の「やんばる国際空港」とすることで「解決させる」と訴えたのだ。

その下地幹郎氏が、衆議院選で落選の報に接するや「政治家はこれで終わります」と那覇市おもろまちの選挙事務所で支持者を前に深々と頭を下げ、政界引退を宣言した。

だが、それでいいのか。大きな志の前には試練の波はつきものだ。その試練の波にただ流されれば、生きているとは名ばかりの魂が抜けた抜け殻の漂流人生が待っているだけだ。

確かに2021年の衆議院選、22年の沖縄県知事選、それに今回の衆議院選と立て続けに3連敗ではあった。往復ビンタを食らった上に、今回の選挙でダメ押しの一発がみぞおちにお見舞いされたかもしれない。

だが、それでノックダウンされるようなやわな人物ではないことは、私自身が百も承知している。

浪人時代も次期衆議院議員の名刺
その前の選挙でも、順風満帆の戦ではなかった。だが敗北する時があっても、その手には「次期衆議院議員」との名刺が握られ満面の笑みとともに支持者を回り、初対面の人たちの心をも引き付けていったではないか。

深刻で重い責務を担っていても政治家というのは、明るくなくてはならない。度量と明るさがあれば、人々が集まってくる。人々が集まれば複眼思考で知恵も生まれる。下地幹郎氏の魅力の1つは、南国の青空のようなその明るさだ。 

行動力も抜群だった。何せ米首都ワシントンで要人と会うのに、日帰りで往復していたのには脱帽したものだ。

還暦を過ぎた63歳と言えば、昔なら隠居生活に入ってもおかしくはない年だ。

だが今は、人生50年といわれた江戸時代ではなく、人生100歳時代の令和だ。63歳など、まだ小僧だ。隠居するには、まだ定年に達していない。

自縄自縛の政治風土打破を
私は常々、戦後から続く沖縄の自縄自縛的な政治風土は変えないといけないと思ってきた。

ともかく、沖縄では何かことを起こそうとすると、どういうわけか、まず反対から入ろうとする。

昔、普天間飛行場の代替基地候補として名護市の意見を求めても、全員反対だった。

私の気持ちとしては、何とか宮古島に来て欲しいと思っていた。    

島の経済の活性化をいうなら、これほどの最高条件での企業誘致はない。何千億円ものキャッシュが転がり込むだけでなく、こちら側からいろんな条件が言える立場だ。しかし、関係者を訪ねても、誰も首を縦に振ろうとしなかった。

サイパンに飛んだ下地幹郎氏
それでやむなく、2010年2月にサイパンに飛び、米自治領北マリアナ諸島のフィティアル知事と会って、基地受け入れを了解してもらう交渉に入った。

その時、サイパンまで駆けつけてくれたのが、下地幹郎氏だった。当時は国民新党の下地幹郎政調会長をしており、社民党の阿部知子政審会長(当時)なども引き連れて飛んでくれた。その時、フィティアル知事から米軍普天間飛行場の同諸島への移設を受け入れる意向を引き出したのはマスコミが報じた通りだ。フィティアル知事は米政府の認可を条件としながら、「航空、陸上、後方支援の部隊を含む普天間基地すべての役割を将来は代替してもいい」とコメントしたのだ。

日韓関係の正常化
下地幹郎氏は日韓関係の正常化にも一役買っている。

2019年、慰安婦問題を巡って天皇陛下の謝罪を求める発言をした韓国の文喜相国会議長が来日した際、日本の山東昭子参議院議長(当時)はじめ政治家は誰も会おうとしなかった。

その折、下地幹郎氏は音喜多駿議員ら日本維新の会所属の議員3人や他の国会議員を伴って、文議長と会っている。

下地幹郎氏には強い信念があった。

それは「朝鮮半島の安定なくして沖縄の米軍基地負担の軽減はあり得ない。朝鮮半島が不安定になれば、沖縄の負担は増すばかり。それを私は許せない」というものであり、何とか日韓関係の正常化を図りたいという思いがあった。

だから本気で沖縄の基地環境を変えるには、ぎくしゃくした日韓関係を正常軌道に戻すことがまずは先決課題だった。そのためなら「火中の栗を拾う」ことに、何の抵抗もなかったのだ。

日韓GSOMIA問題

さしあたって日韓GSOMIA問題を解決する必要があった。

日韓GSOMIAとは、2016年に締結した日韓両政府が安全保障に関する情報を共有・保護するための「軍事情報包括保護協定」をいう。主に北朝鮮が発射する弾道ミサイルのレーダー情報やミサイルの発射準備情報などを共有する。協定締結前は米国を介して両国の情報を共有していたが、締結後は直接のやりとりが可能となった。

協定は1年ごとに自動更新される仕組みで、破棄する場合は更新期限の90日前にあたる毎年8月24日までに相手国へ通告する義務がある。

2019年の8月、韓国の文在寅前政権は、一度、日本とのGSOMIAを更新・延長せず破棄する決定を行ったものの、米政府の説得などにより日本政府への破棄の通告は行われず、協定は維持された経緯がある。

下地幹郎氏もその一役を担ったことになる。このGSOMIA問題解決ためだけに2019月9月3日に初めて訪韓してから2カ月の間に5回の訪韓を果たしたほか、何度となく韓国側との電話会談を行い精力的に動いたのは下地幹郎氏だった。

沖縄に心血注ぐ
過去、沖縄に心血を注いだ大物政治家は何人もいた。

まずは1947年、戦後初めて沖縄人連盟を代表して沖縄を訪問し、沖縄県民から大歓迎を受けた稲嶺一郎氏は生涯、沖縄復興に全力を尽くし、沖縄保守勢力の中心軸として活躍された。元首相の小渕恵三氏も沖縄への思い入れは深いものがあるが、学生時代、稲嶺一郎氏の東京の家に下宿していて、多分に稲嶺氏から薫陶をうけたと理解できる。小渕恵三氏は第84代内閣総理大臣時代の2000年7月、サミットを初の地方開催とし沖縄サミットを決断した。小渕首相(当時)はその年の4月、脳梗塞に倒れ出席はかなわなかったものの、沖縄にサミットを誘致した背景には、稲嶺氏から受け継いだ魂の松明があったと確信する。

なお、初代沖縄開発庁長官を務めたのは、命惜しまぬ鹿児島の侍である山中貞則氏だった。薩摩藩による琉球侵攻の歴史について「鹿児島の人間として知らぬ顔で過ごすことはできない」として、祖国復帰に大車輪の働きをした後、山中氏は本島と比べ様々な格差がある島ちゃび(離島苦)の克服に尽力した経緯がある。山中氏は2003年12月に、初めて名誉沖縄県民となり、沖縄の羅針盤として期待されていたが3カ月後、逝去した。

米軍普天間飛行場返還合意を米国から取り付けたのは、「沖縄は内閣の最重要課題だ」として政権の総力を挙げて取り組んだ橋本龍太郎元首相だった。その橋本政権時代、官房長官・沖縄担当大臣だった梶山静六氏は、「沖縄が私の死に場所だ」とその覚悟を語ったほど沖縄への思い入れには深いものがあった。

山中貞則氏の弟子
今の政治家に、こうした仰ぎ見る峰々を構築する人間山脈に、心情において繋がる人物が乏しいことこそが、我が国の政治の貧困を招いている元凶でもある。

二世議員が跳梁跋扈する今の永田町では、そつなく丸くまとまってはいるものの、アジアを俯瞰し歴史を背負って立つダイナミックな政治家が見当たらなくなった。普天間問題は、こうした現在の薄っぺらな政治家の質を浮き彫りにした側面がある。

この点、例外的とも思える人物が下地幹郎氏だ。下地幹郎氏は山中貞則氏の弟子のような立場でもある。

下地幹郎氏は2021年7月9日にメールマガジンにて配信した「山中貞則 生誕100年に誓う」で以下の文章をしたためている。

山中門下生として感謝の気持ちでいっぱいであります。

私が山中先生と初めてお会いさせていただいたのは、今から37年前、22歳のときでありました。

山中先生が第1次中曽根内閣の通産大臣を務められていたとき、脳梗塞で倒れられ、そのリハビリ治療のために、石垣島に滞在されておりました。

船上で揺れを感じることがリハビリになるとのことで、山中先生は船に乗り釣りをされておりましたが、その間、私が餌をつけて投げる係を任命されたのです。

山中先生のそばにいたことで政治の重要性を学び、「政治家が本気になれば、地域を変えることができる」と心から感じることができるようになったことが、私の国政出馬の大きなきっかけとなりました。

「沖縄の人の立場に立て」「保革の政治に惑わされるな」「沖縄に何が必要なのかをたえず考え、沖縄の人の声を大事にして政策をつくれ」「やらなければいけないことで法律がなければ、法律を立案せよ」「予算がなければ、予算をぶんどってこい」「基地の金網のなかから沖縄を見るな」私の政治の根底には山中イズムが根付いていることは間違いありません。

山中先生は、私が衆議院議員に初当選した後も自室へお呼びくださり、ご指導をいただきました。

「政治家は話を聞くだけではダメだ。提案をするだけでもダメだ。必ず結果を出せ」それはつまり、沖縄県民の声を決して中途半端に受け止めてはいけないという教えだと認識し、その言葉を今なお忘れず、小さい声にも大きな声にも、絶えず結果を出していく政治を行うことを肝に銘じております。

沖縄を思い続けた山中氏の魂の後継者としての下地幹郎氏に、捲土重来に強く期待する。

しもじ つねお

1944年、台湾生まれ。宮古島育ちの沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。77年に日本経営者同友会設立。レーガン大統領からバイデン大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い国際人。93年からASEAN協会代表理事に就任。テニアン経済顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また2009年、モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。