回顧録(24) 日本経営者同友会 会長 下地常雄

李登輝氏との思い出
台湾元総統の逝去を悼む

李登輝元総統との邂逅

 台湾の李登輝元総統が今夏7月30日、97歳で逝去された。

 プロテスタント長老派のクリスチャンであった台湾の元総統、李登輝氏は、イスラエル民族を奴隷の地エジプトからカナンへと導こうとしたモーゼを敬愛した。自らも台湾を中国のくびきから解き放つことを生涯の仕事と課し、総統職を離れて以降も、対米・対日関係の強化に向け精力的に動いた。

米国、国連との人脈拡大の要請

 私は以前、李登輝氏から米国と台湾の政治的絆を深めるための協力要請を受け、台北の李登輝氏の事務所を訪問したことがある。

 その時、李登輝氏に「なぜ私ですか?」と尋ねたところ、李登輝氏は「あなたのことはよく知っていますよ」と応え、手にした私のデーターを見せてくれた。

 「総統のことですから、人脈はいくらでもおありでしょう?」と言うと、氏は「信頼できる人でないと、この仕事は務まらないんですよ」と微笑んでくれた。

 日本と台湾は運命共同体、同じ民主国家だ。台湾が強権国家・中国に取り込まれてしまえば、シーレーンが脅かされることになり、アジアの安全保障は危機に瀕する。今夏、アザー米厚生長官が訪台したが、米台関係強化の種を蒔き続けた李登輝氏の1つの成果ともいえる。李登輝氏は生涯、台湾が対中傾斜にのめり込まないよう警鐘を鳴らし続けた。

民主主義の育成

 李登輝氏は、台湾で民主主義を育て定着させた最大の功労者だ。

 蒋経国総統の死去で、副総統から第7代総統に就任した1988年以降、氏は立法院(議会)のほとんどを外省人が占めている状況下で、台湾の民主化をはじめ、総統直接選挙を実現させることに成功した。これはひとえに李登輝総統の老練な政治力と絶妙なバランス感覚によるものであった。

 李登輝氏とはその時、約一時間半ほど1対1のサシで話した。

 外国の方との会話では生まれ育った風土や文化の違いを多少なりとも感じるものだが、李登輝氏にはそうした感覚は一切覚えなかった。

 氏は日本人そのものだった。水があうというか、違和感は皆無と言っていいほどなかった。 

 「22歳まで日本人だった」と、自負する李登輝氏は、日本の精神性を高く評価する。

 氏は日本人が「東日本大震災での混乱の中、秩序を保ち、他人を思いやる気持ちを忘れなかった」ことをわがことのように誇らしく語った。

 米ロス大地震の時には、混乱の中で人々は商店街に繰り出し、ガラスを割りドアを蹴破って、商品を盗んだと報道されたが、東北では警察も身動きがとれなかった混乱の中で人々は列を乱すこともなく、配給のおにぎりを受け取り、数が足らない時は自分のおにぎりを半分に割って隣人に分けた。町の商店が襲撃を受けたという話は一切耳にしたことがない。 

旧制中学の教育哲学

 こうした日本精神を、李登輝氏は日本滞在中に日常生活の中で触れただけでなく、台北の旧制中学時代にも身に着けたように思われる。

 昨今の偏差値偏重のエリートを育てる進学校とは違い、旧制中学には基本的な人間力を培う教育哲学があった。

 とりわけこの時代の哲学や文学、歴史といったリベラルアーツ(教養教育)による魂の育成は、個人の生涯の生きざまを決定づけるものだ。

 李登輝氏も西田幾太郎や倉田百三、鈴木大拙、新渡戸稲造らから大いに啓発され、「内面と向き合う大事な時間だった」と述懐している。 

 思春期と重なるこの時代に、李登輝氏は、「死とはなにか、人生とはどうあるべきか」といった基本的な人生哲学を学んだに違いない。

 日本で教育を受け、日本語も堪能な李登輝氏は、自他共に認める親日家であり、我が国の台湾統治にも、台湾の近代化、工業化の礎を造ってもらったと感謝しているような言説に、氏の卓越した人生観、世界観を垣間見る思いであった。

 李登輝氏は、また明治時代に台湾総督として赴任した後藤新平を高く評価している。台湾の基礎的インフラを整備した後藤の持ち味は、明確な開発目的意識と強力なリーダーシップだった。

「尖閣は日本のものだ」

 現在、日中間でもめている尖閣諸島問題にしても李登輝氏は「尖閣は日本のものだ。日本はしっかり尖閣を守らなければいけない。いつでも私は日本を応援している」と私に心強い持論を述べてくれた。

 李登輝氏はこれまで常に、台湾には尖閣諸島に対する誤解が存在すると主張してきた。尖閣諸島は戦前から優良な漁場だったが、最も近い石垣島などは市場が極めて小さいため、漁船は捕れた魚を台湾に運んで売りさばいていた。台湾から尖閣周辺に出漁する船も多かった。そのため、台湾の人々は尖閣諸島を「自分たちの島」と思い込むようになったという。

 李登輝氏は「尖閣諸島が日本の領土であることは歴史的に見ても疑いのない事実であり、尖閣諸島が台湾に属したことはない」と断言した。

 しかし台湾政府の立場は、尖閣を自国領とし馬英九政権時代には李登輝氏の主張を「主権を葬る国辱の言説」と非難した。また、現在の蔡英文政権にしても自国領とする立場は変えていない。

 台湾政府は「1683年以来、釣魚台列嶼(尖閣諸島についての台湾側呼称)は台湾に属する島であり、台湾固有の領土の一部だ」と主張しているが、同諸島の領有権を正式に主張したのは、1971年6月11日だった。また尖閣諸島は当時、沖縄同様に米国の施政下にあったが、台湾は国交があった米国に対し、日本に沖縄を返還すると同時に、尖閣諸島は台湾の主権下に置くことを要求したのも、同年3月15日と、極めて遅かった。

 一方、中国が尖閣諸島の主権を初めて主張したのは、台湾より約半年遅れの同年12月30日であった。

 李登輝氏が尖閣諸島問題で日本の肩を持ってくれているのは、東アジア全体の安全保障を考えてのことだ。中国が尖閣諸島の領有権を主張するのは、尖閣諸島は台湾の領土に属し、その台湾は中国のものだから、というものだ。李登輝氏はその中国の三段論法を突き崩し、東シナ海の安全保障が無用な火の粉を浴びないようにとの配慮であった。

磨いた技術力

 李登輝氏は、国家としての縛りを受けている台湾をまずは産業力で国力を強化すべく、新竹市に半導体製造の台湾積体電路製造(TSMC)やUMCといったIT関連の企業と工場を集中させた。これが「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる企業集積地を作り上げることになった。

 さらに氏はハイテクのベースキャンプに、理系選択の男子学生を一気に増加させた。まず工学部や理工学部の大学院に進んだ学生には徴兵を免除し、文系学生が多数派を形成していたそれまでの進学文理バランスを一変させた。その結果、ITやバイオなど台湾のハイテク産業は、人材確保のパイプを太くし、加速・発展させていったのだ。

 こうして台湾のハイテク産業が大きく飛躍していったことを考えると、李登輝氏の戦略眼にはただただ敬服するばかりだ。

 TSMCは今年5月、米国アリゾナ州に半導体工場を建設すると発表した。投資金額は約120億ドル(約1兆3000億円)と巨額であり、米政府からも支援を受ける。

 米政府が積極的に誘致の手を差し伸べたのは、中国ファーウエーに台湾の半導体最先端技術が取り込まれないようにするためだ。

 李登輝氏が先見の明を持って確立させた台湾のITの技術力が、結果、米国と台湾の安全保障に関わる絆の一つとしての役目も担ってくれたことになる。

鑑とすべき哲人政治家

 中国にとって台湾併合は、1949年の建国以来の悲願だ。

 習近平国家主席も、台湾併合を自身の最大の政治課題としている。

 毛沢東が成し遂げられず、香港返還を実現した鄧小平もできなかった「台湾併合」に成功すれば、習氏の政治的求心力は他を圧倒することになる。

 かつて日章旗や蒋介石の青天白日旗が翻った台北の総統府に、中国の五星紅旗が風にたなびけば、習氏は現代の毛沢東となるに違いない。その意味でも中台関係は現在、正念場を迎えている。

 李登輝氏には、巨大な強権国家・中国とするには、台湾関係法で台湾の有事にしかるべき行動を取ることを義務付けた米国を命綱とし、日本との連携が不可欠との固い信念があった。

 海峡を挟んで中国から脅威を受け続けていたために、台湾が生き延びる戦略を氏は常に緻密に考察し続けてきた。

 台湾の民主化に取り組んだ李登輝元総統は「台湾民主化の父」と高い評価を得ているが、自由民主主義の普遍的価値を重んじただけでなく、これこそが、共産党一党独裁政権の中国の圧力をかわす重要な精神的な武器となることを知っていた。

 いわばサバイバル戦略として「自由と民主主義」をとらえ、この思想こそが台湾最大の資産だという懐の深い政治認識、哲学を氏は持っていたのである。

 台湾人のアイデンティティーという魂の柱を、人々の心に根づかせることにも成功した偉大な政治家、賢人と言えよ

う。

 政治家としての器の大小は、その危機認識にも深く関わる。大政治家は大国にいるとは限らない。わが国にとっても、氏は鑑とすべき哲人政治家であったと確信する。