回顧録 (27)

日本経営者同友会 会長 下地 常雄

祖母のお陰で人生間違えず

老いても心は少年
私が勝手に彼の下宿先の背広やラジオを質草にして金を作り免許取得の犠牲になった幼な友達の佐渡山氏はその後、テレビ沖縄の部長になった。

定年後は奥さんとふたりで大阪に住んでいる。

先だって「元気か? コロナ大丈夫か?」と電話したら、

「今は年金生活でつましく暮らしているよ」とのことだった。

「お前、年金生活なんかして。もう少し気合入れてやれ!」と喝を入れたら「あんたとは違うよ。下地は子供の時と変わらんなー」とあきれた口ぶりだった。

その時、私は「本当にそうだな」としみじみ思った。

自分の人生を振り返ってみると、心というか性格は少年時代から全く変わっていないように思う。

人の気性はなかなか変わるものじゃないというのが私の信条だ。知識や経験は豊かになる一方、肉体の老化を防ぐことは難しいが、目に見えない素の心というか、心根というものは時間が経ったからといってそうそう変わることはない。

私は家にこもるより、外で動き回るのが好きだし、本を読むより人と話すほうが楽しいし、性にあっている。

テレビの映像より、生の現場の方がよほど迫力もあるし、現場には生きた教訓があふれている。

また人の話も、結構、本以上に心に突き刺さるものがあったりもする。

まあ私の場合、善きにしろ悪しきにしろ多くの経験と耳学問で成長したように思う。

カー用品会社で1年
自動車免許が無事取れたから、会社に戻った。

すると社長は「お前も変わった男だなー」とあきれ顔で言った。

支度金を渡した後、1カ月半ぐらい全く連絡がなかった。どうなっているのか会社でも、誰ひとり知る者はいなかった。

だからきっと金を持ってとんずらしたに違いないということになっていた。

それがひょっこり現れたのだから、皆を驚かすことになった。

ただ内心は恐る恐るというのが実情だった。

結局、そのままカー用品会社で働いた。マフラーなど車のパーツや備品を販売・製造している会社だ。

ここでは並み居る先輩を差し置いて、一気にトップセールスマンに浮上した。

まず1日目は、飛び込んだガソリンスタンドをピカピカにきれいにすることだけに専念する。

「どうせ、セールス用品を入れて欲しいからやっているんだろう」とどの店長も大抵、冷ややかな目でいた。

掃除が終わると「さようなら」だけ言って何もセールスしない。

次の日も、きれいにしたら「さようなら」だ。

その内に、どこのスタンドでも待っていてくれるようになった。それで「おい下地、何か置いていけ」となった。

これで営業は成功だ。こうなれば、放っておいても売れる。

こうしたセールスマン稼業は1年で辞め、独立し会社を興した。

遊びをせんとや生まれけむ
独立して最初にヒットしたのは、カーステレオ用の音楽カセットの販売ビジネスだった。大体、大手というのはこうした小銭しか稼げない隙間商売には関心がない。

TBS系列のトミー音芸のテープ部門整理に伴い、依頼を受けた私は倉庫にあるテープ全てを即金で買い受けた。

それをバイトのおばちゃんたちに手伝ってもらって、シールを張り替えて販売して、飛ぶように売れ数千万円を手にした。これがきっかけで、以後私はテープ産業界に入って行った。

商売が軌道に乗ると、1日の粗利が50万円から100万円になった。すると私は2丁拳銃といって左右のポケットにそれぞれ100万円の札束をしのばせ、乗る車はロールスロイス、チャイナ帽の運転手にハンドルを任せ、遊びまわった。

当時は『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生まれけむ」じゃないが、遊びがなくて何の人生かといった感覚だった。

当時、私が一番良く遊びに出掛けたのはダンスホールだ。

ソーシャルダンスというのは、男性がリードし女性がフォローして2人が一体となって踊る。

話下手の私にとって、異性と踊りを通じたコミュニケーションが存在すること自体が救いでもあった。

今でこそCDで音楽を流すのが多くなったが、当時のダンスホールはバンドの生演奏をバックに踊るゴージャスなものだった。

大勢の観客の視線を集めて踊れるようになると、それなりの爽快感があるが、何より明るくて楽しく華やかなステージそのものを存分堪能した。それが私の青春時代だった。

集団就職で祖母の守り
金を貯めて何かしようという気持ちはさらさらなくて、入って来たお金は専ら遊びにつぎ込んだ。

当時のダンスホールというのは、入場料が250円、コーヒー1杯が50円だった。夕方から深夜1時ぐらいまで営業していた。クリスマスの時はとりわけ盛況で、立錐の余地もないほどだった。

新宿のミラノ座あたりに、映画館とダンスホールがあった。そこに私はミラノ交遊会というのを作って、遊びのサークルを立ち上げた。

ところが、すかさず一帯を仕切っていたヤクザがやってきた。

「俺のショバで何かしたいなら、まずは俺の子分になれ」とヤクザは詰め寄ってきた。

その時、祖母の一言さえなければ、何の抵抗もなくヤクザになっていたかも知れない。

だが「ヤクザにだけは絶対なってはいかん」と祖母が口を酸っぱくして言ってくれたその一言があったおかげで、人生を間違えずに済んだ。

親代わりに育ててくれた祖母には感謝してもしきれないし、私を温かく見守り続けてくれた親戚には足を向けて寝ることはできない。

島の人たちは、子供を学校にやるにも大変な苦労を強いられる。その苦労が子供にも身に染みて分かるから、親兄弟の悲しむ顔は絶対に見たくない。だから島の子供たちは、概してみんな勉強や仕事に一生懸命励む。

ジャンルの違いはあれ、島出身者に功成り名を遂げた成功者が多いのは、とりもなおさずその気合そのものが違うからだと思う。