元日本陸連理事、元北海道陸上競技協会専務理事 橋本秀樹氏に聞く

スポーツは生きる力

日本陸連公認審判員で唯一競歩審判員と技術委員の両資格保持者の橋本秀樹氏に、競歩、スポーツへの思いを伺った。

──陸上競技、競歩との出会いは?
走るのが速かった私は、子供の頃から教師になり生徒達に陸上を教えたいという夢を持っていました。競歩は、北海道の高校で体育の教師として勤務していた平成10年に競歩審判員の第一号資格者となったことがきっかけです。平成13年インターハイ(全国高等学校総合体育大会)の競技種目に初めて競歩が加えられることになり、競歩審判員の養成が急務となりました。日本陸連(日本陸上競技連盟)が、47都道府県の陸上指導者代表者を対象に行なった競歩審判資格試験に合格して現在に至っています。

今年は10月に鹿児島国体、来年2月は神戸で開催される日本陸上競技選手権大会で、審判として参加します。

──競歩の歴史は?
オリンピックの正式競技として採用されたのは、1908年のロンドン大会からですが、競歩自体は古代ギリシャのオリンピック競技の一部として存在していました。競歩は、どちらか一方の足が、必ず地面に着いていなければならず、両足が同時に浮いていたり、地面についていたりしてはいけません。

また膝を曲げずに直立した状態で歩かねばなりませんので、お尻を左右に振り特徴的な動きをしますね。競歩は陸上競技の中で一番過酷な競技だと言われています。全身の筋力、体幹を鍛えるのは勿論、集中力、耐久性、忍耐力が要求されます。

──スポーツへの思いをお聞かせください。
日本は、もっと世界中のアスリートを支援して欲しいと思っています。

日本は広く国際貢献に努めていますが、特化して発展途上国のアスリートの育成にも力を入れて欲しいと思っています。世界には優れた能力を持ちながら、その能力を伸ばす機会に恵まれない子供達がたくさんいます。強いアスリートやチームはその国の人々を喜ばせ、生きる力を与えます。

かつての日本がそうでした。水泳の古橋広之進選手です。

戦後の日本に、間違いなく生きる力を与えてくれました。

「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋選手は戦後、並み居る欧米選手をものともせず、水泳界で次々と世界記録を打ち立てて行きました。

古橋選手は戦争に負け、物がなくても身体が貧弱でも、欧米選手と充分に渡り合える実績を残すことで敗戦後、自信喪失していた日本人に激励のメッセージを送ったのです。

しかも古橋選手は水泳で不可欠と思われる指の一部を欠損していました。中学3年の時、勤労動員によって働いていた工場の旋盤に引き込まれ、左手中指の第一関節から先を潰してしまっていたのです。

彼は困難な状況を克服し、スポーツを通して戦後の日本人に生きる勇気を与えたのです。

実は私が日大体育学科の学生であった頃、古橋選手は学科の教授になっておられ、身近に接する幸運を得ました。

今、私達人類にとって必要なものは生きる力です。その力を与えてくれるのはスポーツです。

IOC(国際オリンピック委員会)はオリンピックの普及と発展を目指して、経済的な困難に直面する国や地域のアスリート、スポーツ団体を支援するために「オリンピック・ソリダリティー制度」を設立しています。このような支援活動がもっともっと世界中に広まることを願っています。