和田一夫ヤオハン元会長逝去を悼む

日本経営者同友会 会長 下地 常雄

 香港が中国に返還された1997年に経営破綻した総合スーパー、ヤオハンジャパンの創業者で元会長の和田一夫氏が8月19日、老衰のため、静岡県伊豆の国市の自宅で逝去された。

 90歳まで生きた和田氏にすれば大往生だが、ヤオハンの倒産時には「おしんが作って息子が潰した」と揶揄され「無念の一字」が生涯、付きまとったのではと悔やまれる。

 戦前に青果店を開いた母カツさんは、テレビドラマ「おしん」のモデルとされ、それを継いだのが息子の和田氏だった。

積極的に海外出店

 和田氏は62年にヤオハンの前身となる食品スーパー「八百半デパート」の社長に就任、東海地方を中心にチェーン展開し、70年代ではブーム後のボウリング場跡地を活用して店舗数を増やしたことが特筆される。また和田氏は、アジアを中心に積極的な海外出店を手掛け、国内外で幅広く事業を展開した。

 95年には中国・上海に当時アジア最大の百貨店をオープン。この時、ヤオハンは田んぼの真ん中に作ったが、今では上海の金融センター街になっている。和田氏は中国の要人から将来、浦東・金融開発区になるという情報を得ていたと思われる。そうした一級の情報源とダイナミックな進出を果たす腹があったことは和田氏の魅力だった。

 ヤオハンは鄧小平氏の娘の人脈だけに頼っていた。しかし、私は和田氏に対し「政治というのは変わるから、鄧小平人脈一辺倒だけではだめだ。満遍なくつきあっていかないと、政治的な変動に対応できなくなる」と苦言を呈したことがある。

 政治の世界は、欲得と情念が絡み合う巣窟でもある。中国には鄧小平氏に恨みを持っている人もいるわけだから、一本足で歩いてはいずれつまずくことになりかねない。和田氏は但馬副社長に、人脈作りを任せたが但馬氏が病に倒れたものだから、一本足そのものも危うくなった。

 結局、和田氏は一時「流通業界の風雲児」と呼ばれながら、過大な投資負担に耐えきれず、97年9月に約1600億円の負債を抱えて、会社更生法の適用を申請し事実上倒産した。和田氏はこれを機に経営の第一線から退いている。

 日本経営者同友会の特別会員だった和田氏が、中国進出に関し助言を求めた時、私は香港に本社を置くことを勧めた。

 当時、英中交渉で香港の中国返還がほぼ決まり、人も企業も逃げ出そうとしている中、逆にその空洞を埋めることで、大きな信頼を得られると考えたからだ。和田氏はその助言を受け入れ、香港に本社を置いたが、私の友人・知人でもある香港の財閥達から大歓迎された。 

 また、株式会社世界流通ネットワークを一緒に立ち上げ、和田氏が会長に私が社長に就任した。ここを通して、同友会所属企業の商品を卸す計画であった。これらのことやヤオハン本社の香港進出は、日本の経済紙にも大きく報じられた。

転落の谷

 経営者だった私が試練の大波に遭遇したのは、このヤオハンの破綻に巻き込まれたからだった。

 ヤオハンが倒産した途端、連帯保証人の私は矢のような催促の嵐に見舞われた。

  中国に進出したヤオハンとは運命共同体のような立場にあったから、保証人としての責任を免れる道はなかった。LCの枠をつくるために、4行の銀行に、個人保証までしたことが仇となり、以後、ありとあらゆるミサイルが飛んできた。

 だが後日、こういうことが起きたことは自分に驕りがあったからだと反省した。沖縄から出てきて、財界人や政治家にも顔が利くようになって増長していた。つっかえ棒が何本あっても足りないぐらい、ふん反り返っていた。普通なら個人保証などしない。

 やっぱり、みんなが私を頼りにしているとの思い込みでつけ上がった結果が、ヤオハンの破綻だった。それはそれは半端じゃなかった。

 ヤオハンがつぶれる前までは、沖縄県知事を始め政界からも財界からも、私の事務所に列をなして陳情に来ていた。しかし、ヤオハンが危ないとなると、潮が引いたように見事にぷっつりと途絶えた。人一人誰も来なくなった。それどころか、「ほら吹き下地」などと陰口をたたかれた。

 宝くじに当たると、とたんに親戚が増えるという話を反転させたような話だ。

 誰しも人生すべてが順風満帆ということはまずない。起伏の落差は人それぞれだろうが、山あり谷ありの人生が普通だ。

 私の場合、ジェットコースターのような急転落劇があった。企業が成長するのは、野菜が育つのと同じように、時間が必要だ。しかし、転落の谷に落ちるのはあっという間、一瞬だ。

和田一夫氏(左)と一緒に会食する下地常雄会長