沖縄、本土復帰から50年
日本経営者同友会会長 下地常雄
「辺野古移設」、国と県の不毛な対立を憂う
沖縄が本土復帰から50年を迎えた。
太平洋と東シナ海の境にあるその沖縄の、地政学的重要性が一段と高まっている。
中国は、沖縄周辺の海域を通過し、太平洋に出る訓練を繰り返している。中国海警船による尖閣沖の領海侵入が恒常化していることは看過できるものではない。
この地域における米軍の存在こそは、日本の安全保障を担保する根幹だ。日米同盟の抑止力を強化し、有事への備えに万全を期すことが大事だ。
ロシアのウクライナ侵略は、中国の台湾侵攻リスクを国際社会に想起させた。台湾海峡で軍事衝突が発生すれば、隣接する沖縄は火の粉をかぶらざるを得ない。
アジアの安全保障環境が厳しさを増すなか、基地の重要性が改めて問われている。
こうした中、普天間基地の名護市辺野古移設を巡り、国と県が不毛な対立を続ける現状を早期に打開すべきだ。
基地移転問題で、私は2009年2月にサイパンに飛び、米自治領北マリアナ諸島のフィティアル知事と会って、基地受け入れを了解してもらう交渉に入ったことがある。
社民党の阿部知子政審会長や国民新党の下地幹郎政調会長(当時)らもサイパン入りし、フィティアル知事から、米軍普天間飛行場の同諸島への移設を受け入れる意向を引き出したのはマスコミが報じた通りだ。フィティアル知事は米政府の認可を条件としながら、「航空、陸上、後方支援の部隊を含む普天間基地すべての役割を将来は代替してもいい」とコメントまでしてくれた。
賛否議論してこそ民主主義
ただ、沖縄で基地反対論者は強硬姿勢を崩さない。
しかし、基地反対と言うけれども、賛成するかどうかは別として、基地に依存して生活している観点からものを言う人はだれもいないというのはおかしい。
基地が無くなれば失業する人たちが出てくる。そうした人々のための雇用確保といった失業者対策や景気振興策など、地域の経済も考えないとバランスを欠く。基地対策費など予算がたくさんつくが、そうした失業者に還元するための予算ではないのが現実だ。こういった議論をこれまで、全くしてこなかった。ただ基地反対というスローガンだけの運動に過ぎない側面があったことは反省しないといけない。
例えば、米軍の町だったコザ市も、今では米軍撤退でスラムみたいに変わり果てている。基地に依存してきた人たちは、商売上がったりだ。
ともあれ普通だったら賛成、反対の双方の意見があるものだ。
しかし、沖縄では基地に賛成といえば悪人みたいに扱われる「圧力」が厳然として存在する。反対の人も自由に自分の意見を述べられるようになることが必要だ。
この点、マスコミはこうしたことを煽動した〝戦犯〟だ。
賛成派と反対派が冷静に議論できるのが、民主主義だと思う。マスコミは、賛成派の意見も聞く責任があると思う。個別に会えば、賛成という意見の人も少なからずいる。
過去の傷を負ったままの沖縄
敗戦から今日まで、沖縄は過去の傷を負ったままだったとも言える。
だが、いつまでも戦争の被害者意識を持ち続けるのは問題だ。そうしたマイナス感情をずっと引きずり続けて、良いことは何一つない。そろそろ卒業すべきだ。そうでないと、最終的には負け犬になってしまう。
沖縄では他人が偉くなるのを嫌う。「隣に蔵が建つと、わしゃ腹が立つ」といった心象風景と同じだ。しかし、こうした貧しい心根では、社会の発展や進化を期待できるプラス要素すらも排除してしまう落とし穴がある。
根強い犯罪懸念
基地反対論者の中に、犯罪が起きるという懸念も根強いものがある。しかし、何千人という駐留兵士が生活すれば、たまには犯罪が起きるのは当たり前のことだ。それでも町ができ、多様な人々の交流によって醸成される文化が生まれ、町の活性化には大いに貢献すると思う。
犯罪問題では、日米地位協定に対する基本的な誤解があるように思う。この協定は、そもそも「日本と米国の地位」を定めたものではなく、「在日米軍が日本でどういった法的地位にあるか」を定めたものだ。
多くの人々は、在日米軍が優越的特権を持っているように思っているが実は逆だ。
独では、「米独地位協定」によって基本的に米国軍法が適用されるが、日本では公務執行中を例外として基本的に日本の法律が適用され、日本の裁判所で裁かれる。
ともあれ、戦後の沖縄の自縄自縛的な政治風土を変えないといけない。
沖縄に心血注いだ政治家
過去、沖縄に心血を注いだ大物政治家は何人もいた。
まずは1947年、戦後初めて沖縄人連盟を代表して沖縄を訪問し、沖縄県民から大歓迎を受けた稲嶺一郎氏は生涯、沖縄復興に全力を尽くし、沖縄保守勢力の中心軸として活躍された。元首相の小渕恵三氏も、沖縄への思い入れには深いものがあるが、学生時代、稲嶺一郎氏の東京の家に下宿していて、多分に稲嶺氏から薫陶を受けたと理解できる。
なお、初代沖縄開発庁長官を務めたのは、命惜しまぬ鹿児島の侍である山中貞則氏だった。薩摩藩による琉球侵攻の歴史について「鹿児島の人間として知らぬ顔で過ごすことはできない」として、祖国復帰に大車輪の働きをした後、山中氏は電気も水もない島ちゃび(離島区)の開発事業に尽力した経緯がある。山中氏は2003年12月に、初めての沖縄名誉県民となり、沖縄の羅針盤として期待されていたが2カ月後、死去した。
その山中氏の後継者として、下地幹郎前衆議院議員がいる。山中氏の弟子みたいな立場だ。
政治の貧困招く元凶
米軍普天間飛行場返還合意を米国から取り付けたのは、「沖縄は内閣の最重要課題だ」として政権の総力を挙げて取り組んだ橋本龍太郎氏だった。その橋本政権時代、官房長官・沖縄担当大臣だった梶山静六氏は、「沖縄が私の死に場所だ」とも語ったほど沖縄への思い入れは深かった。
今の政治家に、こうした仰ぎ見る嶺々を構築する人間山脈に、心情において繋がる人物が乏しいことこそが、わが国の政治の貧困を招いている元凶でもある。
二世議員が跳梁跋扈する今の永田町では、そつなく丸くまとまってはいるものの、アジアを俯瞰し歴史を背負って立つダイナミックな政治家が見あたらなくなった。御身可愛さだけで、損得を抜きにして国のために汗を流す「井戸塀政治家」など皆無に等しい。
沖縄問題は、こうした現在の薄っぺらな政治家の質を浮き彫りにした側面がある。アジアが歴史的な大潮流に飲み込まれるような時代に入った現在、大局観のあるダイナミックな政治家が現れることを期待したい。
しもじ つねお
1944年、台湾生まれ。宮古島育ちの沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。77年に日本経営者同友会設立。レーガン大統領からバイデン大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い国際人。93年からASEAN協会代表理事に就任。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また2009年、モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。