回顧録 (26)

日本経営者同友会 会長 下地 常雄

祖母との約束

おばあ(祖母)は常雄を東京に行かせると、絶対ヤクザものになってしまうと心配していた。
私は子供の時から短気だったし、腹が立つとすぐ手を出し喧嘩っぱやかった。
だから、おばあからは「お前は、島から絶対出てはいけない」と言い渡されていた。
おばあとすれば、「常雄がヤクザになったら、娘のきよに顔向けできんから」との思いがあって、自分のそばに置いておこうとした。
そうした折、宮古島でブラジル移民の話が持ち上がった。
これにこっそり応募した。
それが露見すると、おばあは本気で叱った。
「ブラジルなんていうのは、地球の裏側にあるような、どこにあるかも分からない国じゃないか。一生、会えないようなところにお前は行くつもりなのか」と詰め寄られ、断念せざるを得なかった。
次に募集していた陸上自衛隊に応募したら、合格通知がきた。
おばあに電話すると、ブラジル移民以上に怒った。
「あんたは戦争でどれだけの人が死んだのか知っているのか。お父さんも死んでいるのに、それでも人を殺しに行くのか」と怒髪天を衝くような勢いで怒った。
人の話は聞かない私も、おばあの言うことにはあらがえなかった。
何より母親代わりに育てられ、世話になったというのがある。
おばあはお袋同様、魂の拠り所だった。

おばあへの誓い

叔母さんの家は男の子4人だから、私を入れれば男の子5人となった。
饅頭なんかあっても子供の頭数で割れば、いくらもない。
そしたらおばあは、自分で食べないで、着物の中に入れてぺったんこになった饅頭を私にこっそり食べさせてくれた。
そういうのがしょっちゅうあって、手をかけてもらった思いがあった。
おばあとすれば常雄は一番下の孫だから、かわいかったのかもしれないし、母親を亡くして甘えられない孫が不憫でもあったのだろう。
そうした私も高校受験を迎えていた。
宮古島の家というのは高床式で縁側が高いので、床下に入ることができた。たまたま床下に入って遊んでいた。すると上で、祖母たちが話していた。
「常坊、高校生になるけど、学費もあるからなー」
すると祖母は「そげなもん、土地でも売って払えばいい」と言っていた。
それを聞いて、迷惑をかけるなと思って後日、私は祖母たちに「勉強は嫌いだから、高校には行かない」と告げた。
そんな折、たまたま集団就職の募集があった。東京で高校の夜学に通いながら働けるというものだ。
それに応募した。見送ってくれた祖母の言葉は「お前は気が短いから、ヤクザに絡まれれば立ち向かって命を落とすかもしれない。だが、ヤクザにだけは絶対なるな」だった。
それで、おばあには「ヤクザにはならないから」と誓って出てきた。
その誓いがなかったら、社会の裏街道に足を踏み入れた可能性があった。おばあの言葉は、私を誤った道へ転落するのを防いでくれた最大の宝物だ。

バイトに明け暮れ遊びで散財

集団就職先となったのは東京都の南千住にある翼ガラスという中小企業だ。まだ現役の企業だ。ここには宮古島の人がいっぱい来ていた。私にあてがわれた仕事は、注射器を作るガラス細工の職工だった。
自分でガラスを焼いて、出っ張っているところをガスで焼いて作り上げるという作業だった。
これは簡単にできるものではない職人技が必要な仕事だ。職場にはいぶし銀のような匠がたくさんいた。
だから新米の私など終業ベルが鳴っても、残業しないといけないのが常だった。1日、500個とか600個がノルマだ。ノルマをやっとこなすと寮に帰って、疲れ果てた体で早々に布団に潜り込んだ。
土日が休日だったが、それでも週末はバイトに明け暮れた。
キャバレー帝の駐車場係りとかして稼いだ。そうすれば1日、3000円ぐらいにはなった。掃除夫もしたことがある。朝の8時から翌朝8時まで24時間働いたりもした。これも12時間で1500円だから、丸1日フルだと3000円にはなった。体が許す限り働いたものだ。
給料が手取りで8000円ぐらいだったから、バイトの方がいい金になった。
だから会社から「お前、どこに行っているのか」とよく言われた。
午後6時から9時までの夜学も、結局長く続かなった。元来、勉強は好きではなかった。
それで何をしていたかというと、金が続く限り、ダンスホールに行っては散財していた。
東京にも慣れてきた頃の話だ。
そのための金を稼ぐのに、ひたすら汗を流した。

「石の上にも3年」を経て

「石の上にも3年」という。それを自分の信条として、3年は頑張ってみようと思った。
翼ガラスで丁度、3年を経た頃、車のマフラーなどを製造・販売している会社からスカウトされた。その会社から「とりあえず免許を取れ」と言われ、支度金として5万円を渡された。今でいうと100万円ほどの金だ。
何を考えたのか、いい気になってその金で遊んでしまった。東京の大学に通っていた同窓生など3人を呼んで、キャバレーでどんちゃん騒ぎ。金は2晩で融けた。
野口英世は悲願とも言うべき米国留学を前に、祝いに駆け付けた友達を誘って芸者を呼び、一晩で渡航費を散財してしまった故事がある。貧乏にして浪費家という英世の心象風景は、私にとっても違和感はない。
英世は己の才能を認める友人をパトロンにして、金を何とか工面して横浜から船に乗った。私には英世のような才能もパトロンもなかった。
このままでは会社には帰れない。だから一緒にキャバレーで遊んだ佐渡山恵正氏の下宿に転がり込み、彼を勝手にパトロンにした。阿佐ヶ谷の下宿先にあったトランジスターや背広とかを、彼が授業に出かけている間に質草にして1万円の金を作った。
そして毎日、試験場に通った。当時はぶっつけ本番で毎日、普通免許の試験を受けることができた。
結局、学科で4回、実地で6回落ちた。それでも延べ11回目で受かった。顔なじみになった試験官は「会社に出勤するみたいに毎日、ここに来るあんたみたいな人は見たこともない」とあきれ顔だった。